キャスリン・ビグロー監督「ゼロ・ダーク・サーティ」(★★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 キャスリン・ビグロー 出演 ジェシカ・チャステイン

 ビン・ラーディンの居場所をつきとめたCIAの女性職員を描いた「実話」である。この女性の変化が、なかなか克明で興味をそそられる。アカデミー賞の候補にあがっているが、「世界でひとつのプレイブック」の女優(予告編しか見ていないが、肉体がスクリーンから飛び出してくる)とどちらかが主演女優賞を取るだろうという感じの、非常に深みのある演技である。
 監督がキャスリン・ビグローが女性であるからかもしれない。(私は、この監督の「ハード・ロッカー」は、そんなに感心しなかったのだが、その感覚になれていなかったのかもしれない。)監督が女性だから……というのは、まあ、偏見の類だろうけれど、男の監督の場合は、たぶん、違う女性像が描かれたと思う。たとえばジョディ・フォスターがいつも演じるようなCIA職員になったのでは、と。
 ジェシカ・チャステインは最初、現場の様子にとまどっている。ビン・ラーディンとつながりがあると思われる男を拷問。それが最初の「現場」である。彼女が男を拷問するわけではないのだが、その場にいること自体が苦痛なのである。そして苦痛を感じながら、それも「仕事」だとも思うのである。
 ここから出発して、同僚の女性がテロの被害にあって死んでしまうということを体験し、彼女のなかで何かがかわる。ビン・ラーディンは彼女にとって、どこか別の場所にいる「架空」の存在ではなく、親友を殺した首謀者なのである。「親密感」というと奇妙だが、親友を殺害されることで、彼女にとってはビン・ラーディンはとても「接近」した存在になったのである。「直接的」になったのである。「直接性」を発見したといえばいいかもしれない。
 この「直接性」が、たぶん、この映画のひとつのテーマである。「直接性(直接的)」というのは、ことばで書いてしまうと簡単だが、なかなか説明のむずかしいことがらである。で、この「直接性」を映画ではどう描いているか。
 男の視点と対比することで浮かび上がらせる。
 あ、女性からは男のふがいなさ、「直接性」の回避はこんなふうに見えるんだなあ、と思いながら見ていたのだが。
 つまり、ビン・ラーディンの隠れ家が見つかったらしい、そこにビン・ラーディンがいるらしい、とわかったあとの会議。攻撃を仕掛けるべきか、捕獲に向かうべきか、という議論をするとき。男たちは情報を分析して「60%の可能性」という。イランの大量破壊兵器情報のときより資料がとばしいから。男たちは、主人公が集めてきた情報を「情報」としか見ない。その向こうにビン・ラーディンがいるか、いないかを「情報」から推測しようとする。出発点が「情報」なのである。ところが主人公は逆なのだ。出発点はビン・ラーディンの存在であり、それにあわせて「情報」を「証拠」としてととのえる。--帰納法と演繹法のように、向き合い方が違うのだ。隠れ家には三人の女性がいる。だから、確認されている二人の男以外にもうひとりの男がいる可能性がある。その男はしかしビン・ラーディンであるかどうかはさらにあいまいである。見えないものの存在を特定することはできない。男たちがそう考えるのに対して、主人公は、そこにはビン・ラーディンがいる。その証拠には、二人の男の相手としての二人の女以外に、もうひとりがいる。絶対に姿をあらわさないのがビン・ラーディンなのであるから、それはビン・ラーディンである。見えないがゆえに、それはビン・ラーディンである。
 「見えないゆえに、存在する」というのは「直感」というものだろうけれど、その「直感」の「直」こそが彼女にとっては「直接性」の「直」なのである。
 で、この主人公は、「ビン・ラーディンがそこにいる確率は?」と、問われたときとてもおもしろいことをいう。「 100%いる。けれど、 100%というとみんなが逆に不安がるから95%いる、と主張したい」。5%のあいまいさ、「間接性」--推測の余地を男たちに「わざと」提示するのである。男なんて、結局、直接触れることを避けている。直接性を回避しているという厳しい批判がそこにはある。それはまた「直接性」を生きる女の自信でもある。実に毅然としている。スクリーンに最初に登場してきたときの弱々しさはまったくない。
 で、「直接性」を回避しているCIAのトップ陣(男)にへの強い批判があるからこそ、この監督は、終盤に「直接性」を生きている現場の兵士たちにたいへん温かい目を向けている。隠れ家急襲の準備、実際の行動を、それまでの主人公をそっちのけにして、実にていねいに、緊密に、粘着力のある映像でスクリーンに展開する。(「ハード・ロッカー」も、思い返せば、「直接性」を生きた男を描いていた。)ビン・ラーディンを殺害したあと、そこにある「証拠(資料)」をどんな具合に整理しながら集めるかというような、「本筋」とは関係ないようなところまでしっかり描いている。こういう「直接性」を生きる人間がいて、事実が動いている。事実は、作戦本部の「頭」のなかで組み立てられるのではなく、そこにある「もの」が直接つくりあげるものなのだ。
 男の監督の場合、こういう「直接性」の哲学までは、映画にならなかっただろうなあ、とつくづく思った。
                        (2013年02月21日、天神東宝4)

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