フョードル・ボンダルチュク監督「プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星」(★) | 詩はどこにあるか

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監督 フョードル・ボンダルチュク 出演 ワシリー・ステパノフ、ピョートル・フョードロフ、ユーリヤ・スニギーリ

 ロシアのSF映画。地球から戦争がなくなり、人間もほとんど不死になった未来。若者はひとりで宇宙旅行に出かける。で、ある惑星に不時着する。そこでは「匿名の父」が社会を支配していた。
 というようなことなんだけれど。
 まったくおもしろくありません。ある惑星というのが何やらソ連時代のソ連(変な言い方だね)、というかソ連に支配されている国を思わせる。ソ連に支配されているとは、別な言い方をするとソ連に安全を守られている、というのだけれどね。「匿名の父」のことばで言いなおすと。で、大半の市民は「匿名の父たち」の政治によって暮らしを守られていると思っているけれど、そこには「自由」がない。で、その「自由」をもとめて主人公が立ち上がる。
 あらら。
 「匿名の父」の独裁ぶりは、しかし、ていねいに描かれていない。つまり、魅力的に描かれていない。悪人が魅力的でないと、こういう映画はだめだねえ。紋切り型。「匿名の父」という「ことば」による説明からして「映画」を踏み外している。それって、「小説」でも許せないようなことだけれど。--まあ、原作は漫画らしい。漫画を否定するわけではないけれど(実際に私はその漫画を読んでいないので否定しようもないのだけれど)、漫画も「ことば」が主役になってしまってはおしまい。
 ロシアではヒットしたというのだけれど、なぜかなあ。長い長い共産党時代の感覚がまだ残っているのかな? あ、ソ連みたい、というのではなく、ソ連だとしてもいいのだけれど、それを批判するときはこんな感じに……という「教科書的」な展開。そのことにこそ問題があると気づかずにヒットしているのだとしたら、なんだかさびしい。
 最後に「匿名の父」が実は地球から不時着した地球人だったというオチ(?)は、ロシアのソ連からの解放は見せ掛けのものである、という「告発」のつもりなのかなあ? でも、その見せ掛けの解放から真の「自由」を獲得するというのも地球からやってきた若者というのではなあ。
 「自由」というのは、やはり、「いま/ここ」を生きている人間が自分の力で獲得するものではないのかなあ--とは、これもまた「教科書的」な哲学か。うーん。この映画は人間を「教科書的」に洗脳する力をもった新しい宣伝映画かもしれないぞ。
 気をつけよう。
                      (2013年01月17日、KBCシネマ2)

 


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