藤井晴美『今、ミズスマシが影を襲う』は、短かったり長かったり、いろいろなのだが、短い方がいいかもしれない。
「ある交響曲」は巻頭の作品である。
死ぬ間際に私は、自我の受け皿を自室に置いた。そこに薄く水が張られていた。簡単に言えば、死後私がそこに電磁誘導されるわけだ。
私は、なぜ私か。この問いの不可思議さは、恐怖によって担保されてきた(鮮度が保たれてきた)。
この詩は1段落だけの方が私にはおもしろく感じられる。2段落目は説明が多くておもしろくない。とくに「恐怖によって担保されてきた」が「鮮度が保たれてきた」と言いなおされるとき、ことばがまったく進まなくなる。
「私は、なぜ私か」というのもありきたりな問いで、ばっさり半分にしてしまった方が楽しいと思う。
1段落目には「なぜ」がない。「理由」がない。それが刺激的である。死んだあと自我が薄く水が張られた皿に電磁誘導される、ということがほんとうかどうかなんてどうでもいい。ことばがそう動くなら、そのことばのためにそういうことが起きたってかまわない。ことばがそう動いたのなら、絶対にそうなってほしいと私は思う。で、そんなふうにことばが動くとき、そこには「ことばの肉体」があって、それがおもしろいのだが……。そして「肉体」というのはいつでも「絶対的な他者」である。つまり「わからない」、だから「ほんとう」に思える。
それなのに。
2段楽目で「なぜ」がでてきたときから、「肉体」が「頭」にかわってしまう。「なぜ」という「理由(根拠)」は「頭」が考えるものである。「肉体」は「なぜ」など考えない。ただ動く。なのに、「なぜ」がその動きをとめてしまい、さらには「担保されてきた」を「鮮度が保たれてきた」と言いなおすので、どうしようもなくなる。「論理」問いうのは「他者」ではな、「共有」を求めて動くおもしろみに欠けるものである。「わかってくれ」と求められて「わかる」ということほどつまらないものはない。「頭」で共有されるものは何だか肉体を疲れさせる。
タイトルの「交響曲」にかこつけていえば、1段落目はちゃんとした「演奏」だったのに、2段落目は「楽器」が消えてしまって「楽譜」を見せられた感じ。「楽譜」を見せられて、そこから「音楽」を正確に把握しなさいといわれてもぐったりするでしょ? 「楽譜」にも音楽はあるのだけれど、「音」のように直接「肉体」に飛び込んで来ない。
まあ、これは私が「音楽」を完全に知っていないからなのだけれどね。--という言い方を流用すれば(?)、私はことばの動きを完全に知っているわけではないので、藤井が書いているように、ことばが「頭」へ向かって動いてくると、なんだか読むのがつらくなるのである。「頭」のなかで動くことばを生きている人(「楽譜」の音楽を生きているような人)には、それが楽しいかもしれないけれどね。
詩集中で一番気に入ったのは「2009年5月25日7時40分頃/死亡逃亡」という2行のタイトルをもつ詩である。
小雨の中を懸命に自転車を漕いで投稿する女子高生。田舎の道。
その女子高生の白い脚を自宅二階のベランダから見ている初老の男。
そのすぐ下に巨大な温室が隣接していて、そのなかで農作業を続ける男。温室のガラスは蒸気で曇っている。そのため中の男は、緑色の中に溶けだして、すっかりにじんで見える。彼自身が栽培している植物と同化してしまうとでも言うように。
昨夜見た夢から逃げるように少女は急いでいた。
主語が次々にかわっていく。このときの「変わり目」に詩がある。切断する力に詩がある。「その女子高生」「そのすぐ下」「その中」「そのため」と「その」ということばが繰り返される。いったん句点「。」で切断しながら、その切断したものを(先行するものを)、「その」ということばで強引に引き寄せ、いままで存在しなかったものに接続する。そのとき「飛躍」が生まれる。「その」という粘着力が「飛躍」を浮き彫りにする。その「矛盾」--「接続」と「切断」、「粘着」と「飛躍」という矛盾がつくりだすリズムがとてもおもしろい。「他者」が次々に増えてゆき、その増え方が「社会(現実)」と重なってくる。あ、こういう世界の広がり方ってあるよなあ、と感じる一瞬だ。
これは「ある交響曲」にも実は存在した。
死ぬ間際に私は、自我の受け皿を自室に置いた。そこに薄く水が張られていた。簡単に言えば、死後私がそこに電磁誘導されるわけだ。
「その」ではなく「そこ」。これは、
死ぬ間際に私は、自我の受け皿を自室に置いた。「その皿」に薄く水が張られていた。簡単に言えば、死後私が「その皿に張られた水」に電磁誘導されるわけだ。
と書き直してみれば「その」が存在することは明白だろう。先行することばをきちんと踏まえながらことばを動かす、という「散文」の「文法」を守りながら、(守るふりをして?)、そこに「詩」の「文法」でことばを接続させる--異質なものを出会わせる。
このとき、その「異質なもの」というのは、ある種の「肉体」である。最初に「いま/ここ」に存在する「もの」とは違う「もの」のぶつかりあい。「ぶつかるということ」が起きる。そうすると、その瞬間「頭」は混乱するね。それが「詩」。
こういうものに「なぜ」というような「頭」の「文法」は不要。
このバランスは、しかし、藤田の詩ではまだ安定していない。どうしても「頭」がでてきてことばを動かしてしまう。それが残念。
あ、「茶箪笥から出てきた男」には、
アンパンほお張る海あかり。
という1行があった。これはいいなあ。前後は、私にはあまりおもしろくないが、この1行は楽しい。この1行を読むために、この詩集がある、とさえ思える。
アンパン「を」ほお張る海あかり。
ではないところが、とてもいい。スピードがある。異質なものがであうというとき、そしてそれが「こと」という事件になるとき、それを可能にするのはスピードなのだ。「頭」をとっぱらって「肉体」だけが動く。「ことばの肉体」が動いてしまう。この筋肉がもっとついてくると藤田の詩はとても楽しくなる。そういう予感がある。
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