池井昌樹は私には「わざと」からとても遠い詩人に見える。「嘘」を必要としない詩人である。「嘘」がないために「おもしろみ」が少ないかもしれない。えっ、ことばはこんなふうに動いていいのか、という驚きが少ないかもしれない。こういう詩人を取り上げて感想を書くのはとてもむずかしい。なぜかというと、「わざと」があると、その「わざと」に向き合いながら、これはこういう「意味」ですよと「注解」すると何となく何かを言ったような感じになるのに、池井の詩の場合はそういうことができない。何を書いても新しい何かを発見したという気持ちになれない。感想も「よかった」以外に書けないので、わざわざ感想を書くまでもないということになってしまう。
でも私は池井の詩が好きなので感想を書く。「わざと」書くのだと言ってもいいかもしれない。私の感想は池井の詩への感想というより、私がいつも考えていることを強引に語るだけになるかもしれない。
「草を踏む」の全行。
いつだったかな
おまえとは
このよのくさをふみしめた
ことがあったな
おまえとはだれだったのか
わたしとはだれだったのか
どんなあいだがらだったのか
なんにもおぼえていないのに
どこだったかな
ふたりして
このよのくさのうえにいた
ことがあったな
いまはじまったばかりのような
すっかりおわってしまったような
めもあけられないまばゆさのなか
こころゆくまでみちたりていた
すあしでくさにたっていた
ことがあったな
ただそれだけのことだけが
ただそれだけのことなのに
いつもの詩のように「だれだかわからなもの」と「わたし(池井)」が出会っている。「いつ」かは「わからない(おぼえていない)」。それは「はじまったばかり」のようでもあり「おわってしまった」ようでもあるという正反対のことがらを平気で結びつける。そこには「区別」というものがない。「区別」がなくて、かわりに「区別のなさ」がある。この「区別のなさ」を「永遠」と呼んでもいいし、そういう「区別のできない」状態を「放心」と呼んでもいい。「永遠」と「放心」が出会うといえばいいのか、「放心」のなかに「永遠」があるといえばいいのかわからないが--と書いてしまうと、いつも私が書いてきたことの繰り返しになる。「新しい」感想、言い換えると、「草を踏む」という作品に対する感想にならない。
あら、困った。
でも、私はほんとうは困っていない。この詩については書きたいことがある。
この詩には「ことがあったな」という行が3回繰り返される。この「ことがあったな」とは何だろうか。何のために書いているのだろうか。そのことを書きたい。
長い間「現代詩講座」を開いていないのだが、架空の講座を開いてみようか。
<質問>この詩に知らないことば、わからないことばはありますか?
<受講生>ありません。
<質問>「ことがあった」って、知っていることば?
<受講生>知っています。
<質問>じゃあ、どういう「意味」? 自分のことばで言いなおしてみて。
<受講生>ええっ、「ことがあった」なんて誰でもつかうことば。
言いなおすことなんてできない。
(ね、これが池井の詩には「わざと」がないという根拠。別なことばでは言いなおす必要がない。「比喩」でも「虚構」でもない。)
<質問>じゃあ、こんなふうに考えてみた。
もし「ことがあった」という行がなかったらどうなる? 「意味」は変わる?
<受講生>変わりません。
<質問>じゃあ、どうして書いたんだろう。
<受講生>えっ、私は池井さんじゃないからわからない。
「知らない」わけではないけれど、「わからない」ことばがある。それはさっと読んだときは気がつかないけれど、大切なことだ。
「わからない」ことばのなかには、それを書いたひとがいる。「池井さんじゃないからわからない」けれど池井ならわかる--そのひとだけの「意味」のようなものが、そこには含まれている。
では、この池井の「ことがあったな」には何が含まれているのだろうか。
<質問>「ことがあったな」って、では、どういう時につかう?
<受講生>何かを思い出したとき。
<質問>思い出すのは何を思い出すのかな?
<受講生>「あったこと」
<質問>ほかのことばはないかな? 池井が書いていることばで……。
<受講生>おぼえていること。
そうだね。思い出すのは「おぼえていること」。池井は「なんにもおぼえていないのに」と書いている。「おまえ」と「わたし」が誰で、どういう関係だったか、具体的なことは何にも覚えていないけれど、草を踏みしめたことは覚えている。そういう「ことがあったな」。
そうすると「こと」というのは「くさをふみしめる」、その「踏みしめる」動詞だね。これは草の上に「いた」、草に「たっていた」という具合に、動詞が変化していくけれど、それは変化しても「こと」は変わらない。「動詞」と「こと」はそんな具合に密着している。
そして「動詞」というのは「肉体」と関係している。「踏みしめる」は「足」で、足という肉体で。「たっていた」の行には「すあしで」とちゃんと書いてある。これは、私の流儀で言いなおすと「肉体で覚えている」ということ。
「肉体」でははっきりと「覚えている」。しかし「肉体で覚えている」ことは、ことばではなかなか言い表すことができない。
だから、
ただそれだけのことだけが
ただそれだけのことなのに
と、あいまいに終わるしかないのだけれど。
<質問>この行のあとに、ことばを補うとしたら?
<受講生>……。
<質問>覚えている、の反対は?
<受講生>忘れる
そうだね。
で、私なら「忘れられない」補う。肉体で覚えたことは、いつまでも覚えている。忘れられない。自転車に乗ることを覚えたら、いくつになっても乗れる。泳ぐことを覚えたらいくつになっても泳げる。肉体は忘れない。そして、この肉体が覚えていることをことばで言いなおすのはむずかしい。自転車に乗ることを、左右にバランスをとりながらペダルをこぐ、前に進むスピードが横に倒れることを防ぐ、なんて言いなおしても、実際に自転車に乗っているときはそういうことをことばにして頭で意識しているわけじゃない。無意識だね。
そういう「無意識」が覚えていることを池井は書いている。「無意識」だから、そこには「時間」がない。だから永遠。「無意識」だから「放心」。
「ことがあったな」という行はなくても「意味」は変わらない。でも池井は「意味」ではなく、その「意味」が変わらない何かを書きたくて「ことがあったな」と書かずにはいられない。書いてしまう。「わざと」ではなく、ほんとうに「無意識」に。
池井はいつでも「覚えていて/わすれられないこと」をそのまま何もつけくわえずに、生まれたての赤ん坊のような、ほかほかのゆげがたっている感じで書く。池井はこの至福を「めもあけられないまばゆさのなか/こころゆくまでみちたりていた」ということばで書いているのかもしれない。それを読むと私はとても幸福になる。私の「肉体」が覚えている何かがゆっくりと目を覚ます。池井のことばは私の肉体が覚えていることを目覚めさせてくれる。
![]() | 池井昌樹詩集 (現代詩文庫) |
池井 昌樹 | |
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