高貝弘也『白緑』(2) | 詩はどこにあるか

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高貝弘也『白緑』(2)(思潮社、2012年09月01日発行)

 「好み」というのは「偏愛」ということでもある。「偏愛」は「変愛」でもある。偏ったはようするにふつうではない。変である。このヘンが変から偏になるまでにはけっこう時間がかかる。「あの人は変わり者だから」と受け入れられるようになるまで時間がかかるのと同じである。変と偏はどこかで交錯している。そして、それが受け入れられるとき(あるいは受け入れるときと言ってもいいけれど)、そこに私たちは(私は、でいいのだけれど)、「時間」のようなものを見る。あ、私にもこういう「過去」の時間があるな、あるいはこういう「時間」の存在をどこかで見聞きしてきたことがあるな、という感じ。私にとっては「いま/ここ」とはつながらないけれど、そういう「時間」を生き延びることもできたのだなあという感じ。
 「白緑」の1行目。

それから あなたは舞い降りて、微睡(まどろ)んでいる。

 「微睡」と書いて「まどろむ」。そうか「まどろむ」というのは「微」の「睡」。少ない、かすかなねむりのことだ。肉体の中にある記憶、体験が、ことばを揺さぶる。「微」ということばといっしょにある「微小」「微笑」「微風」「微分(もつけくわえてみようか)」へと広がっていく。それから「睡」眠と結びつき、イメージ(?)が広がる。簡単に言うと「誤読」の幅が広がる。あなたが「まどろんでいる」とき、そこには強い風ではなく微風が吹いている。ほほには微笑が浮かんでいる。きっと、そこにはやわらかい光も射している……。
 何が「それから」なのかわからないけれど、何かをひきずりながらそこにあるもの。そして「舞い降りて」というやわらかな、ふわりとした感じが「まどろむ」を包む。
 「爆笑」「強風」「強い光」とは違うものがまわりに集まってくる。
 で、そのことばから始まる1連は次の3行である。

それから あなたは舞い降りて、微睡んでいる。
雨が止んだばかりの、
しろい穂波のきわ

 雨が降り続いていたら「まどろむ」には似合わない。小雨でも降り続いていると「まどろむ」という感じではないなあ。「止んだばかりの」の「ばかりの」という、この「一瞬」が「微」にとても似合う。似合うと私は感じる。(これは、まあ「好み」である。--私はずーっと「好み」のことを書いているのだが。)
 それから「しろい」という表記。「白い」だとイメージが強すぎる。「白」になりきるまえの、たとえば「白い夏野」というときの光のなかから光があふれてくるような輝かしさとは違う、ほのかな輝きが「しろい」という「文字」のなかにある。「穂波」の「波」から揺れ動くもの、大波ではなく、ほんとうにかすかな揺れ。それが「きわ」という「微分」された領域で存在を主張する。
 それは、いわば私たちが(私が)見落としている何かなのである。それはいつでも「いま/ここ」に存在しているはずなのだけれど、私のことばの「経済学」がそれを捨て去っているものなのである。そういうものがあることを高貝のことばは気づかせてくれる。

白緑(びゃくろく)色のまぼろし
あなたが寄る、道草の末(うら)

 きのう読んだ詩にも「白緑」ではなく「白緑色」ということばで「白緑」はつかわれていた。「白緑」は色なのだけれど、それをわざわざ「白緑色」というとき、そこにかすかな意識の「ひきはがし」のようなものがある。
 高貝のことばは、この「意識のひきはがし」の、そしてひきはがされた意識の「離脱」のような領域で、「ほら、ここに、こういうことばがあるよ」と告げる。こういう微妙な領域の動きは、私のように目の悪い人間にはちょっとつらいのだが、そういう領域のことばを高貝は「偏愛」している。
 「白緑色」の「色」ということば念押しのようなもので、その「偏愛」をしずかに主張している。
 で、そういう「偏愛」が「末」と書いて「うら」と読ませる世界へ、ひきはがされ、離脱し、浮遊し、行ってしまう。セックスのエクスタシーの瞬間のように。
 「末」はほんとうに「うら」と読める? そういう読み方はある? 私は目が悪いので漢和辞典なんかはもうひかない。調べる気持ちもないのだが、
 そうか、道草をしてぶらぶらする。そうして「いま/ここ」からずれていく。その道草の果てには「いま/ここ」の「裏側」のようなものがあるのだな、
 と直感的に納得してしまう。「誤読」してしまう。
 それは「道草」の「草」の文字に強引に結びつけると、草の葉の裏側のように、実は「表裏一体」のもの。「裏」だからといって、どこか遠くではない。どこか遠くではないけれど「いま/ここ」ではない。そういう世界がたしかにあるのだと直感する。--これはもちろん「感覚の意見」であり、論理的には説明できないなにごとかなのだけれど。

 で。
 その「末=うら(裏)」ということばに「出典」があるかどうかわからないけれど、あ、これはどこか「遠い過去の時間」の、人間の肉体の奥に存在する何かなのだなあ、ことばの歴史というか蓄積というものが、ふいに肉体の奥から噴出してくるようなものだなあ、とも感じる。
 --ということは、まあ、おいておいてつづきを読む。

しきりに半月が 囀(さえず)っている
(まるで、あなたにしがみつくように)

 月が囀る、という日本語はないね。ほんとうは月が囀っているのではなく、月の光のなかで何かが囀っているのかもしれない。でも、その鳥はどうでもいいのだ。すでに高貝の意識は「いま/ここ」からかすかに離脱しているのだから。
 「満月」ではなく「半月」というのは、この離脱の「中途半端な確実性(?)」の具体的な事実である。言い換えると「象徴」である。
 そして、それが中途半端な、しかし同時に感覚的にはとても切実(たしか)なものであるからこそ、そこに「しがみつく」ということばがすり寄ってくる。

 高貝の書いていることに「意味」はあるかもしれない。「意味」なしにはことばは動かしにくいだろう。しかし、「意味」なんかは関係がない。だれにだって「意味」はあり、私はこういう「意味」でこのことばを書きました--と主張されても、それじゃあわからないよと言ってしまえばそれですむだけのことなのである。
 で。
 もしほんとうに「意味」があるとするなら、高貝の場合は、ことばの「偏愛」をつらぬいていることばの感覚--このことば、この音、この文字が好きという論理を超えた何かである。好みの特権(?)でことばを引き寄せ、ふるいにかけるようにして選り分け、そこから動いていくものに身を任せる--そういうことばとのセックスの仕方そのものに「意味」がある。
 セックスの仕方の「意味」なんて、完全に個人的なものである。高貝と同じやり方で同じエクスタシーが得られるということはありえない。そのやり方でエクスタシーにまで到達できるのは高貝しかいない。
 だからこそ、それが詩になる。

 きょうも「感覚の意見」だけで感想を書いてしまった。



高貝弘也詩集 (現代詩文庫)
高貝 弘也
思潮社