尾関忍『約束』 | 詩はどこにあるか

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尾関忍『約束』(思潮社、2012年07月31日発行)

 尾関忍『約束』の巻頭の表題作の1連目はおもしろかった。

わたしは約束を守ってまっすぐに走っていきました
どこまでも続くアスファルトの道に白い砂をまきあげ
途中で川をまたごうとして鎖骨を落としてしまいました
骨はぷかぷか浮かんで遠くへ流れていきました
それでもまだ走り続けました

 なぜ落としたのが「鎖骨」なのか。わからない。わからないからおもしろい。信じるしかない。私は何かを知りたいのではない。信じたいのだと思う。書かれていることがらを知りたいとは思わない。ただ信じたい。信じるとき詩人が見えてくる感じがする。もちろん錯覚なのだけれど。
 ところが2連目になると、もう信じる気持ちがなくなる。

突然平野にあらわれたそれは深い穴のようでした
底のほうでは鏡になった水が割れ
一片一片がじっとこちらを見ています
いつの間にかほわっと浮いて落下する体
井戸のなかでふくれあがっていくわたし

 ここには「わからないこと」がない。1行目の「それ」は1行目を読んだだけでは何かわからない。最後に「井戸」ということばが出てきて、井戸だとわかる。「それ」は井戸を隠しておくためのレトリックである。
 つまらなんなあ。
 レトリックなんかどうだっていいのだ。
 覗いた井戸の水面、その水鏡が割れる。それに誘われるようにして井戸に落ちる(入り込む?)。
 「鎖骨」のような、わからないけれど、そのわからないことばが私の(読者の)肉体にある部分と強引につながってしまう。その強引さが2連目で消えてしまっている。
 「六月の祈り」の「六月の長い雨にはさまれた黒い指がのびてきて」(24ページ)から始まる数行、「岩の子ら」の書き出し(32ページ)の数行もおもしろいが、持続しない。「わからないけれどわかる」というわくわくした感じが突然消えてしまう。
 「肉体」が消えると、突然、「常套句」が支配的になるのだ。そのため「とてもよくわかる」ということが起きるが、「とてもよくわかる」と読む意味がなくなってしまう。「わからない」からこそ、そこに私の知らない何かがあると信じることができるのだ。「わかってしまっている」ことを書かれても、それは単にだれの技巧がより効果的かということばの技術になってしまう。ことばの技術になってしまうと、そんなものは差があってないに等しい。自分の技術が上、と思うのは勝手だが、それは結局のところ先行するだれかの「模倣」にしかすぎない。美空ひばりの歌った歌は、美空ひばりの模倣をしないかぎり歌にならないようなものだ。
 あ、脱線した。

 しかし「山道」はおもしろかった。この詩集から一篇を選ぶなら、これである。ちょっとめんどうくさい形をしているので、引用は形を変えている。行の頭をそろえて引用している。

彼女と山道を登った
ふっふっふっふっはっはっはっはっ
同じリズムでザックをゆらし同じ歩幅で毛先をゆらして
ふっふっふっふっはっはっはっはっ
ラマーズ法にもかなわない滑らかさで会話をかわし
ふっふっふっふっはっはっはっはっ
私が吐いた息を彼女が吸って彼女が吐いた息を私が吸って
ふっふっふっふっはっはっはっはっ
そんなふうに山道を登った

 「私が吐いた息を彼女が吸って彼女が吐いた息を私が吸って」というようなことは実際には不可能である。事実を「誤認」している。私のことばで言いなおすと「誤読」している。けれどそれが不可能で、そして「誤読」だからこそ「ほんとう」になる。
 「誤読」のなかには誤読する人の本能が隠れている。いや、あらわれてる。本能が「常識」を突き破って動いていく。この動きには「間違い」というものはない。何をしたいのか、という欲望が正しく動いている。こういう本能の欲望は絶対的に正しい。つまり、純粋で輝いている。

山頂までの道のりはあまり覚えていない
頂はしたたかに近づいてすぎに視界から消え去った
岩場に腰かけ水筒をかたむけるほかの登山客たちは
すれ違うだけの他人
すばらしい景観もざわめく野鳥の声も
渓流の清音も濁音も私たちには関係なかった
彼女の吐いた息を私が吸って私が吐いた息を彼女が吸って
ふっふっふっふっはっはっはっはっ
そんなふうに山道を登った

 「彼女の吐いた息を私が吸って私が吐いた息を彼女が吸って/ふっふっふっふっはっはっはっはっ」ということ以外は関係がないから、「道のりはあまり覚えていない」のは当たり前。「ほかの登山客たちは/すれ違うだけの他人」も当たり前。そして、そのとき、あらゆる描写が「すばらしい景観もざわめく野鳥の声も/渓流の清音も濁音も」という具合に常套句になる。(「濁音も」は常套句から少し飛躍しているけれど)。関係ないものは「常套句」ですませたい。この正直なことばの「経済学」が気持ちがいい。大事な「ふっふっふっふっはっはっはっはっ」は何度も繰り返す。「私が吐いた息を彼女が吸って彼女が吐いた息を私が吸って」が「彼女の吐いた息を私が吸って私が吐いた息を彼女が吸って」に入れ代わって、どっちがどっちでもよくなる。「彼女」と「私」の区別がなくなる。区別がなくなりながらも、かならずAが吐いた息をBが吸い、Bが吐いた息をAが吸うという相互の関係だけは間違いなくつづく。世界がその吸って、吐いて、息が体のなかで混じり合うということだけになる。

彼女の吐いた息を私が吸って私が吐いた息を彼女が吸って
ひたすら下る坂道
二人ゴールを目指し
その時にはきっと
抱き合うのだ

 単純でいいなあ。そうか、山へ登れば「ふっふっふっふっはっはっはっはっ」と「彼女の吐いた息を私が吸って私が吐いた息を彼女が吸って」を体験できるのだ。あしたは、いやきょうの午後は山へ登ろうという気持ちになる。
 山はそんな単純じゃないって? そんな思いは「誤解(誤読)」だって?
 そんなことは知っています。
 知っていて、それでも「誤読」をするのです。信じるのです。それが楽しい。
 正しい読み方(?)、正しい解釈というのは、つまらない。日常の生活というのはどうしたって「正しいこと」の積み重ねでしか動かない。ときにはことばの力を借りて暮らしを整えるということ(大江健三郎か谷川俊太郎みたいだなあ……)ということも必要になる。
 それはそれでいいんだけれど。

 余分なことを書いたのは、このすばらしい「山道」も最後は常套句の抒情に終わっているからかもしれない。それがつまらない。
 山道を下りたあと、二人が「抱き合う」ということがなかったのなら、「その時にはきっと/抱き合うのだ」で終わってしまえばいい。そこまでが詩。ことばが勝手に燃え上がっているときが詩なのである。




約束
尾関 忍
思潮社