ワン・ビン監督「無言歌」(★★★★) | 詩はどこにあるか

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 映画のチラシにワン・ビン監督の談話が書かれている。「『無言歌』はおそらく初めて、「反右派闘争」という現代中国の政治的過去と、右派とされた人々の収容所における苦難を真っ正面から語った映画です。苦しみ傷ついた人々に尊厳をふたたび取り戻すために。」--内容は、そのとおりのことがらから成り立っている。
 荒涼とした土地での「強制労働」が描かれる。ただ生き延びるために何をしていいかもわからない。この映画、ほんとうに終わるのだろうか、と心配になるくらい、過酷な日常が、日常そのものとしてくりかえし描かれる。
 その映画が、後半、その強制収容所に女が尋ねてくることで、激しく動く。感情が動きはじめる。
 女が探している男、夫は、死んでしまっている。そして、何人も何人も死んでいっているので、誰をどこに葬ったかわからない。荒野に土まんじゅうがいくつもいくつも広がっている。それでも女はあきらめない。ひとつずつ手で盛り土をかきわける。肉体(遺体)が出てくる。探している男ではない。次の土盛り、さらに次の土盛り……。
 見つからないから、あきらめろ、と収容所の男たちは言う。あきらめろといいながら、女に食事を出しもする。食事といっても中身のない水だらけの雑炊のようなものなのだけれど。--そして、それを食べることで、女は、さらに真剣になる。こんな条件で、男は生きてきた。生かされてきた。非人間的に扱われ、いまも、どこに眠っているかわからない。そんなことがあっていいはずがない。
 女はあきらめることができない、のではなく、あきらめてはいけないと決意したのである。この決意に、収容所の男が揺さぶられる。二人がいっしょに探しはじめる。このとき、荒涼とした風景が、急に不思議な光に満たされる。荒涼そのものにかわりはないのだが、綱領に負けないいのち、荒涼を跳ね返す何かが動きはじめる。女の肉体は、男たちの肉体と違って、明確な目的をもっている。その目的、意思が空気を変えてしまうのだろう。そして、ついに探しあてる。長い間いっしょに生き延びてきた仲間だから、少しでも土の下から体が出てくれば、探している男とわかる。女にとっても大事な人だから、どんなに変わり果てていても、夫とわかる。
 このあと、火葬にして、遺骨を抱いて女は上海へ帰っていくのだが、遺骨をかきあつめ、白い布につつみこむシーンがとてもいい。もう、ぜったいに離さない。そういう力が漲っている。悔しさがみなぎっている。
 このことがあったあと、収容所を脱走する男が出てくる。その男には師と仰ぐ人がいる。足が悪い。でも、いっしょに脱走しようとする。その途中、予想通り歩けなくなる。さて、どうするか。男は老いた師を背負って歩きはじめる。そうすると、すぐに歩けなくなる。
 師が言う。「弟子なら、師の言うことを聞け。私をおいて、おまえだけ逃げろ」
 弟子はそのことばに従って、師を置き去りにして歩きはじめる。けれど、戻ってきて自分のコートを師にかける。師はそれを拒む。
 このとき弟子が言う。「師なら、たまには弟子の言うことも聞くべきだ。私は若いから大丈夫。私のコートを着て、少しでも寒さを和らげてほしい」
 コートぐらいで防げる寒さではないだろう。結局、師は死んでしまうだろう。けれども、それを見捨てない。気づかう。その強いこころの交流--それは、女が残していったものである。
 脱走がわかった翌朝。そこでの詰問。誰も「知らない」としか言わない。言わないことが連帯であり、希望なのだ。
 つらい映画なのだが、そのつらさを打ち破るようにして、人間が動いてくる。それがすばらしい。