誰か教えてください(3)(公開メール) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 「これが最後の私信だ。」と前回の武田肇のメールには書いてあった。しかし、最後ではなかった。ほんとうに面倒くさい人である。
 以下が武田からのメール。(1行あきなどは一部省略)

谷内修三へ最後の私信

ワカラン男だねェ。
「批評を書いたから御一読を」。ここまではいいのだよ。そもそも君にしてみりゃ頼みもしないホンを一方的に送られた立場だ。
自著を送る者への返礼として当然の文ともいえる。そのくらいのこと、若い時分の武田だって書いたかもしれない。
で、ブログを開けば・・・
「感想を書くのが面倒くさい」の一言で、君の「御一読を」が押し付けに一変するのだ。もっといえば、押しつけは作者へのストーカー行為にも等しいのだよ。
そればかりか、君の「面倒くさい」が、じつは、いいかね、じつはこれこそ君が君のブログ読者に向けて一番公言したいこと、要するに君の余裕を示すこれ以上の誇らしい言辞は無い、という君の文弱、貧しさなんだ。されば・・・
さらに言えば、凡百の寄贈本は君の野心を満たすための素材ってことにもなる。
ぼくは今後も君に本を送るだろう、と思う。送られても無視すりゃいい。それが出来ないのも君の野心だ。
今回、質問が一つに絞られて、ラクだったがね。あとは雑誌を見てくれ。君にはワルイが、森川と言うオトコと谷内を一からげに、ちょっとした好読物に仕上ったと自負している。
2500人読者が待っていてくれる(城戸朱理が3000部と書いているが、現在は2500プラス予備)。ダシに使ってごめん。君にも深謝。ちなみに此処で一言。君が読んで決してイイ気分の記事じゃない。・・・
しかし、「船/岡山」。あれを指摘、もしくは注意されて意趣返しはないね。お陰で有名な話題になったよ。しかも、誤読をこれからも続ける? これはもっと笑っちゃう。いいか。
読み間違えなんざ、ちっとも恥じゃないんだよ。しかし、あの読み方をされては、作者の一分が立たねぇんだ。「ははーん、こんな解釈もあったんか。これもオモシロイな」の次元じゃねえんだ。立場を変えても、まだ分らんか?
そこで尻をまくるのが田舎モンの田舎芝居というんだ。だから・・・質問だの何だのと、言葉尻を何とか探してまでの延命保身は、もうやめれ。
以後、panchan は開かずに失敬する。二度も開いたんだ、感謝しろ。3月末には詩壇周知の記事だよ。それまでの辛抱。
武田

 理解できない点がいくつもある。全部書いていたらきりがないので少しだけ書いておく。私は武田の「船岡山」の句を読み間違えた。山の名前と気づかず、「船/岡山」と読んだ。そして間違えたまま感想を書いた。その後、武田から「間違えています」という指摘が電話であった。そのとき、私はその指摘に対して「ありがとう」と答えた。
 それが、どうしたの?
 そんなこと、「詩壇周知」になるからといって、何が問題なの? 「詩壇」って、武田の句を正しく読むかどうか、誰が誤読したかどうか、ということに、そんなに関心があるの? へえーっ、知らなかったなあ。武田の句を中心に動いている世界なのか。前回のメールにあった「詩人団体云々」も何のことかわからなかったけれど、「詩壇」「詩人団体」って、武田の句をどう評価するか、どう解釈するかをテーマに成立している世界なんですかねえ。知らなかったなあ。
 知らないついでに書くけれど。
 詩壇の「構成人員」って何人? 教えてもらえませんか? 「ガニメデ」を読んでいる2500人、3000人のこと? 武田が引き合いに出している城戸朱理はいつか「ブログの読者が1万人になったから、やめられなくなった」と書いていたから、その城戸の読者に比べると四分の1から三分の一が詩壇になるのか。城戸は詩壇をはるかに超える読者をもっているということですね。そうか、そして、そういう人が武田のことを正確に理解しているということなのかな?
 ふーん。
 よくわからなけれど、その2500人から3000人が、武田の「船岡山」の句を正しく解釈し、谷内は間違えて読んだという事実を「周知」するんですね。よかったですね。「船岡山」の句をきちんと理解してくれる人が多くて。
 私のブログは、コメントやトラックバックからわかるように、読者がほとんといません。1日に多くて数人かな? そのブログを2500人から3000人に紹介してもらえるなら、まあ、ありがたいことですねえ。読者の数と、私の「野心」は、あまり関係がないのだけれど、それでも私の考えていることについて、もし誰かが何かを考えてくれるというのなら、それはとてもうれしいなあ。
 もし武田の書く文章で、そういうことを思ってくれる人がいれば、ということだけれど。まあ、武田は私の批判を書くようなので、私のブログの読者は減りこそすれ、増えはしないということなのかもしれないけれど。

 「野心」といえば。
 武田はどう理解しているか知らないけれど、私の「野心」はひとつ。「ことばは肉体である」ということを「証明(?)」すること。ことばを肉体との「一元論」でとらえなおすこと。--これは、どうやったらいいのか、よくわからない。私のなかで「予感」のようにして、何かが動くけれど、うまくことばにならない。
 2500人か3000人のなかから、誰かヒントをくれないかなあ。そういう機会になればなあ、と願っています。
 --ということを含めて、「ガニメデ」に書いてもらえるととてもうれしいけれど、きっとそういうことは書かないでしょうねえ。

 それにしてもねえ。
 私は武田さんのストーカーですか? 句集の感想を書くことがストーカー? メールの返信を書くことがストーカー? 私は武田さんから句集をいただいたので感想を書きました。その内容は武田さんの気に食わなかった。だからストーカー? また、私は武田さんからメールが来たので返信を書きました。その内容が気に食わないから、ストーカー?
 なんだか変だなあ。私から武田さんに働きかけたのではなく、武田さんから働きかけがあったから、それにこたえただけ。そして、それが武田さんの気に食わない。だからストーカーというのか。
 さらに「ぼくは今後も君に本を送るだろう、と思う。」だって。
 ね、面倒くさいでしょ? (これは、この「日記」を読んでいる読者への問いかけ。)

 でも、わからないのだけれど。
 1月26日に、私は「面倒くさい」ということばを含む感想を書いたけれど、そのことは武田さんにはお知らせしていません。年賀状で「感想を書きました」と書いたのは昨年の感想のことです。私はいま体調が悪くて、どんなはがきも手紙も書いていません。「1月26日の日記を読んでください」と書いたはがき(年賀状?)があるなら、それを見せてもらえませんか? 武田さんと私では、事実関係(時系列)が合っていない。事実を確認して話さないと、さらに面倒くさくなるだけ。


薔薇のプローザ
武田 肇
蒼土舎