谷川俊太郎の詩はときどきとても変である。どこまで本気(?)かわからないときがある。今回の「シミ」にもそういうものを感じだ。
妬(ねた)みと怒りで汚れた心を
哀しみが洗ってくれたが
シミは残った
洗っても洗っても
おちないシミ
今度はそのシミに腹を立てる
真っ白な心なんてつまらない
シミのない心なんて信用できない
と思うのは負け惜しみじゃない
できればシミもこみで
キラキラしたいのだ
(万華鏡のように?)
谷川の詩は「意味」で動くときがある。「意味」が常識をひっくりかえす。あるいは気がついていなかったことを明確にする。そういうとき、何かを発見した気持ちになる。あ、そうだったのだ、と納得し、その納得を「詩」と感じるときがある。
1連目の最後の行「今度はそのシミに腹を立てる」が、それにあたる。「シミに腹を立てる」--ああ、そうなんだ、と思う。それは私がまだ気がついていないことがらだった。自分ではことばにできなかったが、肉体で感じていたことだと思う。あるいは、あ、こういうことがあった、覚えている--と思い出す。
そういう感じがある。
ところが2連目は、同じ調子では読めない。「真っ白な心なんてつまらない/シミのない心なんて信用できない/と思うのは負け惜しみじゃない」という3行が、とても理屈っぽい。論理的でありすぎる。1連目の「シミに腹を立てる」というような、直接性がない。
なぜだろう。
2連目をていねいに読み返すよりも1連目に引き返した方がいいのかもしれない。なぜ、「シミに腹を立てる」ということばに私は強く惹かれたのだろう。すーっと引き込まれ納得したのだろう。
たぶん「腹を立てる」ということばが腑におちたのだ。
「腹を立てる」は冒頭の1行目に出てくる「怒る(怒り)」と同じことを意味している。でも、「今度はそのシミに怒る」では、たぶんすとんとは納得できなかったと思う。理屈っぽいなあ、と感じたと思う。
「怒り(怒る)」の方がことばを正確に引き継ぐことになるから、「今度は」の意味もよくわかる。でも、そんなふうにわかりすぎると、理屈っぽく感じると思う。
「腹を立てる」と「肉体」を直接ことばにしているから、私の「肉体」に響いてきたのだ。「怒り(怒る)」だと、肉体ではなく、感情に響いてくる。--その肉体と感情の違いの差--肉体の方が納得しやすいのだ。
2連目には、その肉体がない。「つまらない」「信用できない」「負け惜しみじゃない」--ここには肉体がない。
「キラキラしたい」の「キラキラ」に肉体じゃない。
最終行の「万華鏡」は、もう完全に「肉体」とは別なものだ。
「シミ」は肉体についてはいないのだ。
もちろん、谷川は最初から「肉体」とは書かず「心」と書いているのだが……。
あ、私は谷川の書いている「心」を「肉体」と感じていたけれど(1連目の「腹を立てる」は「心」が「腹」であるという証拠だと思う……)、2連目でその「心」と「肉体」の関係が、「心」と「論理」になっている。
そこで私はつまずいたのだ。
「万華鏡のように?」で、私は完全に谷川のことばと離れてしまった--分離してしまった。首をかしげてしまった。
書いている谷川自身はどうなんだろう。2連目に満足しているのかな?
よくわからない。
最終行が括弧に入って、疑問符までついているのは、谷川も納得していないということ?
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