「パリへ渡った石橋コレクション 1962年、春」 | 詩はどこにあるか

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「パリへ渡った石橋コレクション 1962年、春」(石橋美術館、2012年01月28日)

 「石橋コレクション」がパリで1962年にパリで紹介され、話題を呼んだという。そのときの「コレクション」をそのまま東京で紹介している。
 私はピカソとセザンヌが大好きだが、「石橋コレクション」のピカソとセザンヌはちょっと不思議な感じがする。強烈には惹きつけられない。おだやかに、その絵の前で呼吸したくなる。なんだろうなあ、これは。マチスにしても同じだ。過激さがない。私は過激なものが好きなので、こういう静かな感じにつつまれると、一瞬困惑するが……。

 ピカソ「女の顔」(1923年)は不思議なところがふたつある。
 ひとつは、ざらりとした絵肌の感じ。白の絵の具の感じが、ざらざらしている。そして、それがギリシャの夏の光を乱反射させると同時に、目に見えないような影を内部に抱え込む。矛盾。そして、その矛盾が、何か、絵の暴走、色の暴走を押さえ込んでいる。
 もう一つは顔の輪郭。バックの青--そのグラデーションの美しさがあるのだから、白い顔に輪郭はいらないだろう。白い肌、白い布の境目に線があるのはまだ納得がいくが、顔の輪郭線はなぜ? しかも、それは正確(?)ではない。一部が顔の内部に食い込んでいる。あるいは白い頬が輪郭をはみだしているというべきなのか。しかし、これがまた、ざらざらの白の絵の具の肌と同様、不思議に絵を落ち着かせている。「ゆらぎ」というとまた別の概念になるのかもしれないが、そこに自然な動きがある。固定されない「ゆれ」がある。呼吸がある。

 その呼吸について考えていたとき。

 私はふと、山田常山の急須のつなぎ目の手の跡を思い出したのである。完璧ではなく、むしろ不・完璧(非・完璧?)であるものが持つ力。そこから広がる余裕のようなもの。その不完全なところで、鑑賞者が遊べる、参加できる余地がある。「女の顔」の頬の大きさを線にまで引き戻したり、白い頬の形そのままになるまでひろげたり。そうして、自分にとっての「女」はどっちだろう、どっちが美人、と思ったり。どっちが母親らしい? あるいは娘らしい? どっちが悲しい? どっちが恥ずかしい顔? 恥じらいを秘めた顔?

 これはなかなか楽しい時間である。
 あ、私はこんなことも思えるんだ、とちょっとびっくりした。「女の顔」の輪郭については、長い間、あれは一体なんだろう、どうしてなんだろうと思っていたが、こんなふうにことばが動くとは思わなかった。

 これはきっと山田常山を見た影響である。
 芸術はどこで見るか、どの順序で見るかによって、毎日、姿を変えるものかもしれない。だからこそ、何度も何度も見なければならないのかもしれない。

 セザンヌの「帽子をかぶった自画像」(1890-94年頃)の塗り残しも、自己主張のない、ほんとうの塗り残しに見える。それが自然で楽しい。「サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」も、色が色になる前の運動のように思える。
 石橋正二郎は、静かな絵を呼吸するのが好きな人だったのだろう、と思った。