「三代山田常山--人間国宝、その陶芸と心」(出光美術館、2012年01月28日)
三代山田常山という人を私は知らなかった。常滑焼の急須は家にあった、といってももちろん山田常山のつくったものではなく、スーパーで売っている類のものである。つるりとしていて朱色である。こういう日常的につかうものを「芸術」に高めるとはどういうことなのか。わからない。
わからないまま、会場に入る。まず朱泥の急須がある。むかし家にあったものと似ているか--というと似ていない。朱色の具合がまず違う。妙に静かである。手にとるわけにはいかないが、どれもずいぶん軽そうである。そして、こういう印象があっているかどうかわからないが、不思議なやわらかさがある。肌がはりつめながらも、何か余裕がある。緊張感、硬さがない。しなやかである。そうか、これが芸術というものか、と素人は思ったままに書く。
途中で、あれっ、と思う。注ぎ口、把手と胴というべきなのかなんというべきなのかしらないけれど、本体とのつなぎ目がスーパーで売っているようなものとは違う。きちんとしていない。土をのばしてくっつけた手の跡(指の跡?)が残っている。手でつくっているという証拠? 滑らかな肌を無造作に汚している(?)ところがおもしろい。ふーん、芸術とはこういうものか、と知ったかぶりをしてみる。「この手の跡がいいんだよね」と言うと、通らしく聞こえるかな? 今度言ってみよう、とひそかに思ったりする。
藤田穐華の彫刻(文字)入りのものもある。これはこまかい。拡大鏡がそばにあるが、私は目が悪いので拡大鏡越しにもその文字は読めない。不思議なのは、文字が刻まれていても、急須の肌が傷ついていないという感じがするところだ。さっき、しなやかということばをつかったが、硬いだけだと、たぶん傷になる。他者をしなやかに受け止める力があるのだろう。
でも、こういうものって、実際につかうのなかなあ。
朱泥の急須を見たあと、紫泥、烏泥の急須がある。白泥、藻がけ、彩泥といろいろな種類があり、さらに酒器、食器があり、自然釉の壺などがある。つるりとした急須の印象はここでは完全に消えて、泥そのままの、ざらりとした感じがなかなかおもしろい。あ、こういう自然な感じがいいなあ。こういうのがほしいなあ--と思った瞬間。
変なことが起きた。
いやあ、やっぱり、最初に見た朱泥の急須がいちばんいいんじゃないかなあ。私のなかでだれかが、静かに異議を唱えたのである。
引き返して見なおした。ほら、静かだろう? 自己主張がなく、見落としそうだろう? こういうのを実際につかうとぜいたくだぞ。つかいながらうれしくなるぞ。人をひきつけるというより、人といっしょにいるという感じを呼び寄せる。この急須でお茶を入れると、そのまわりに自然に人が集まってくる。そして、ああ、おいしいお茶だねえ、とお茶をほめる。急須ではなくて。それを急須がうれしそうに聴いている。そのとき、空気が和むのを聴いている。そういう静かさがあるなあ。
自然釉の壺は、どうつかう? 花を飾るには自己主張が強すぎる。庭の隅にころがして、気がつく人だけ気がつくように飾っておく? でも、なんだかそれはわがまますぎるなあ。気がつく人は気がつけよ--というのは、気がつかない人は相手にしないと主張しているようなものだ。思わず、身構えてしまう。
帰りがけに、ふと壁を見ると山田常山が妻と一緒に急須をつくっている写真があった。ほーっ、と思った。これはいいなあ、とも思った。妻は何やらブラッシング(?)しているような手つきだが、--うーん、「芸術」なら、どんな作業も他人にはまかせないなあ。妻にはまかせないなあ、と私は思う。でも、常山は、何かを平気で妻にまかせている。それじゃあ、ここにある急須は常山と妻の合作? じゃないんだね。そこが、おもしろい。そこがすばらしい、と思った。
私が最初に急須に感じたしなやかさはこういうことなのかもしれない。他人に何かをまかせる度量の大きさ。それがしなやかさにつながる。そして静かさにつながる。人があつまって、なごむ。そのための器、ということを感じた。