谷川俊太郎は、「流通言語」を詩にかえてしまうことができる。だれでもが知っていることば、だれでもがつかう比喩を、谷川独自の色にかえることができる。しかも、「かえた」ということを強く意識させない。まるで、それは私(谷川)が考えたことではなく、あなた(読者)が感じていることでしょ、とでもいうような静かさでことばを動かす。
「おのれのヘドロ」はタイトルそのものが「流通言語」である。「ヘドロ」という「比喩」も説明が必要ないくらい「流通」している。つまり、読まなくても、書いてあることがわかる。
--と、言いたくなるのだが……。
こころの浅瀬で
もがいていてもしようがない
こころの深みに潜らなければ
おのれのヘドロは見えてこない
偽善
迎合
無知
貪欲(どんよく)
自分は違うと思っていても
気づかぬうちに堆積(たいせき)している
捨てたつもりで溜(た)まるもの
いつまでたっても減らぬもの
最後の1行目にたどり着くまでは、「だれもが言っていること」と思って読んでいた。けれど、最後の1行に「あっ」と思った。
「ヘドロ」は溜まる。汚れが溜まって「ヘドロ」になる。
谷川は、そういう「流通している常識」のあとに、「いつまでたっても減らぬ」をつけくわえている。「減らない」。
私は、谷川が書くまで気がつかなかった。そうか、「ヘドロ」は溜まるのではなく、減らないのか……。減らないから「ヘドロ」になるのか。
これは小さな発見か、それとも大きな発見か--区別はむずかしいが、どういうことでも「私」という「個人」にとっては「大小」はない。発見に「小さい」「大きい」はない。けれど、谷川は、そういうことも読者に意識させないように、ほんとうに静かにことばを動かしている。
「流通言語」を装っているが、「流通言語」ではないのだ。
![]() | 二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9) |
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