家族がゲイだったら……というのは、もう珍しいテーマではない。どう乗り越えるかといっても、まあ、受け入れるしかない。
この映画で魅力的なのは、おばあさんである。ほんとうは結婚相手である男の弟が好きだった。けれど人の(たぶん両親の)望みにしたがって兄の方と結婚した。そして、いつまでもいつまでも弟のことを思っている。かなえられない恋--それは消えることがない。思いは、いつまでも消えない。
この苦悩、この悲しみが、他者へのあたたかい理解へとかわる。恋する人間を責めない。それを台詞ではなく、まなざしで表現する。ゆったりとした肉体の動きで表現する。それが、この映画の基底を支えている。
それにしても--。このおばあさんと、冒頭のシーン、あるいはときどき挿入される思い出のシーンの「花嫁(おばあさんの若いとき)」が、そっくり。まるで、若い女優が老人になるのを待って撮ったのではと思わせるくらいそっくりなのである。メイクによって似るようにしているのだろうけれど、それにしても「親子」以上にそっくりなのである。そして、それゆえに、この映画が説得力をもつのである。
このおばあさんのなかに、いつまでもあの若い女性の悲しみと、またよろこびがあるのだとわかる。それは「記憶」ではなく、「いま」なのである。おばあさんの「人の望みにしたがって生きるのはつまらない」「かなえられない恋は消えない(思いは消えない)」というせりふが、「ことば」ではなく「肉体」として伝わってくる。おばあさんは、思い出として、そのことを語っているのではない。「いま」の自分の問題として語っているのである。
だから、主人公の「いま」とも重なる。ひとのこころが重なるのは、「いま」が重なるのである。
これは主人公とプラトニックな恋に落ちる若い女性についても言える。パスタ工場の合併相手の責任者(?)なのだが、彼女には、人に語れない悲しみがある。一時期精神が不安定だったのだ。いまでも、気に食わないだれかの車に平気で傷をつけて復讐したりする。だから、人の目が気になる。どこかで、自分を隠している。抑えている。--自分を隠しているからこそ、彼女は、主人公が自分を隠していることを見抜く。ゲイであり、それを他人に隠していることを見抜く。
この「いま」の重なり、「いま」の融合というのは、なかなかむずかしい。だれでも家族なら理解し合わなければいけないとはわかっている。けれど、それができないときがある。それぞれの「過去」というか、「過去-いま」の「時間」が違っているからである。同じ「いま」を生きているようでも、ほんとうはそれぞれの「過去」を生きている。
たとえば主人公の男の父親は、男はマッチョであらねばならないという「過去」の「男性像」を生きている。ゲイなんて、嘲笑の対象である。(途中で、ゲイを題材にしたジョークが出てくる。父親のお気に入りである。)母親も、やはり「男はゲイであってはならない」という「過去」にしばられている。両親は「いま」を生きているようでも、実は「過去」を生きている。息子たちとは違った「過去-いま」という時間を生きている。その「いま」は出会いはしても、重ならない。
この重ならない「過去-いま」が「いま」として重なるためには、めんどうくさいが、やはり「時間」がかかる。「いま」のなかに、「過去」をていねいにつないでみせる「時間」が必要なのだ。他人の「過去」は、そのひとにしかわからない。その「過去」をわかってもらうには「時間」がかかる。「過去」が、そうやってわかる(理解される)というは、矛盾した言い方になるが「過去」が消えるということでもある。「過去」は死んでしまい、「いま」だけが「ここ」にある。
それを象徴するように、おばあさんが死ぬ、そしてその葬式で家族が「ひとつ」にもどるシーンが最後に描かれる。このときのおばあさんの死も、とってもいいなあ。糖尿病なのだろう。甘い菓子は禁じられている。けれど、おばあさんは最後に大好きな大好きなケーキを着飾って、化粧して、むしゃぶりついて、死ぬ。「甘いものを食べたい」という「望み」を残して、ではなく、完全に消化して、死ぬ。それは「生きる」ということと同じである。「死にざま」とは「生きる」ことである--とあらためて思った。
という哲学(?)を、この映画は、イタリアっぽくというのだろうか、明るく、笑いとともに描いて見せている。女性のファッションに詳しい、ダンスが好き、おもしろいことをすぐにコピーして笑いのなかで共有するというゲイの風俗(?)をちりばめて「娯楽」にしたてている。主人公の恋人、友人がローマから押しかけてきてのドタバタがとても楽しい。ノイズっぽい声の「5000の涙……」という歌もなかなか味があるなあ、と思った。
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