ここはいったいどこなのだろうか。アメリカの地方とはわかるが、まったく知らない世界がそこにある。荒涼とした山。生きている動物。動物のように「掟」にしたがって生きている男たち。耐えている女たち。
その耐えている女のひとり--主人公の少女がすごい。
父親が家や土地を担保に保釈金をつくり、そのまま疾走する。そのために家を追われそうになる。家には精神を病んだ母と弟、妹がいる。少女がなんとかしなければ一家は生きていけない。
で、ふつうなら挫けそうになるところなのだけれど、その山の中で生きてきた「一族」の精神(あるいは山の中で生きてきた男たちの精神)を父親以上に具現化し、懸命に生きる。たとえば、食料がなくなったとき、リスを殺し、シチューにする。--その前に、リスを捌く。その、捌き方を弟にしっかり教える。皮を剥ぎ、内臓を素手で取り除く。これを覚えなければ生きていけない。生きるとはどういうことかを、教える。たぶん少女自身が、そういう生き方を父や一族から習ってきたのだ。そのことが、強い力でつたわってくるのだが、そのときの「手」の強調がとてもいい。生きるとは食べることであるけれど、生きるとは「手」を使うことなのである。人間は「手」を使う生き物なのである。
だから、これに先立つシーン。リスを銃で射止めるシーン。少女は6歳の妹に、銃の引き金をひかせている。「ここに指をかけて」と。
この「手」が、この映画のキーワードで、クライマックスにもう一度登場する。それは、まあ、ここでは書かないでおく。
「手」には日本語の場合「手を汚す」という表現がある。英語にも同じものがあるかどうか知らないが、たぶんあるだろう。
少女の父は麻薬密造に関係している。「手を汚している」。「手を染める」ともいうかもしれない。
そして、男たちは「手」で相手を殴る。(女も、手で殴る。)このとき、たとえばほかの道具を使っていても、その道具(たとえば棒、鎖など)を使い、動かしているのは手である。「手」を動かして、ひとはひとを傷つける。
その一方「手を差し伸べる」という表現もある。少女の困窮を見かねた近所のひとが料理に使う材料をもってくる。
「手を組む」という表現もある。少女の父は、「手を組む」べき相手を間違えて(裏切って)、殺される。
一方、「手を洗う」ではなく、「足を洗う」という表現もある。この映画では、そういう「足」は出てこない。「足をいれる」(踏み込む)は、「手を出すな」と同じように「禁止」としてつかわれている。
どういうつもりで撮っているのかよくわからないが、少女のクロゼットにはブーツがきちんと揃えられている。その数に、何か、とても不思議なものを感じる。その印象が強くて、映画から「手」が浮かび上がってくるのかもしれない。
「足が地についている」ということばを、いま、ふいに思い出した。そうか、少女は、この山野生活に、「一族」の生活に「足が地についている」状態なのだ。だから、そこを離れない。離れようとはしない。「足を地につけて」「手を自由に動かして」生きる。
ということが、まるでドキュメンタリーのような、厳しい映像、遊びのない映像でつたわってくる。遊びがない--とはいっても、それは映像自体のことであって、どういう暮らしにも「遊び」はある。12歳の弟、6歳の妹がトランポリンで遊び、また干し草の山で遊ぶシーンは、こどもは「遊ぶ人間」であることを教えてくれる。そういう姿をきちんと映像化し、他方で自分の「手」で人生を切り開いていく少女がしっかりと描かれる。
厳しい生活、厳しい人間関係のなかで、一か所、胸にずしんと落ちてくる静かなシーンもある。少女は金に困って軍隊に入ろうとする。軍隊に入れば4万ドル手に入る。その金で弟、妹を救える--そう思い、入隊を申し込む。
このとき、担当官が少女に質問する。なぜ金かいるのか。そして、厳しいかもしれないけれど、弟・妹のところへもどって生きるのがあなたにとって必要なことだ。弟・妹もそれを必要としている、とこことばで説得する。
そのことばを少女は受け入れる。
とても短いシーンだが、私はうなってしまった。
まるで「論理」を超越して、荒々しく、野生のように生きているように見えて、実は少女は「ことば」を生きている。自分の「暮らし」をことばにしている。最初の方に、隣の家の人が鹿を捌いているのを弟と見るシーンがある。弟が「もらいにいったら」と提案する。少女は「もらうのはいいが、物乞いはだめだ」という。結果が同じではなく、その過程を「ことば」でどう表現できるか。それを、少女は問題にしている。
少女は、ただ生きているのではない。一瞬一瞬を「ことば」にしながら、そのことばの「論理」を点検しながら生きている。その生き方が、この映画の強い「芯」になっている。最初に書いたリスの皮を接ぐシーン。そこでは少女は「私はこっちからひっぱるから、おまえはそっちをひっぱれ」と弟に語る。ことばで説明する。「内臓も食べるのか」ととう弟に「いずれは」とちゃんとことばにしている。妹に銃の引き金をひかせるときも「ここに指をかけて」ときちんとことばにしている。
映画とは基本的に「ことば」がなくても成立するものだが、この映画では、そういう細部の「ことば」が、映画そのものの「芯」になっている。
「ウィンターズ・ボーン」というのは、いったい何のことだろうか、と途中までまったくわからなかった。最後に「意味」がわかるのだが、その「ウィンターズ・ボーン」ということばのつかい方そのものが、この映画を象徴しているとも思った。
そして、その問題の「ウィンターズ・ボーン」のシーン。水面に浮いた電動ノコギリの油(油幕)の映像が、深く、冷たく、そしてとても美しいのに、私は息をのんだ。
強烈な少女を演じた ジェニファー・ローレンスは「あの日、欲望の大地で」で、絶望を演じた少女だった。映画を見終わったあと、どこかで見た顔--と思いながら、なかなか思い出せなかった。役柄が離れすぎていてだれかわからないということはよくあるが、近すぎるのにわからないというのは、近いようでいて、それぞれまったく別個な人間として感じきっているからだろうとも思った。
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