杉山平一『希望』(2) | 詩はどこにあるか

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杉山平一『希望』(2)(編集工房ノア、2011年11月02日発行)
 
 きのう感想で書き漏らしたことのいくつか。
 「わからない」というの詩。

お父さんは
お母さんに怒鳴りました
こんなことわからんのか

お母さんはお兄さんを叱りました
どうしてわからないの

お兄さんは妹につっかかりました
お前はバカだなあ

妹は犬の頭をなでて
よしよしといいました

犬の名前はジョンといいます

 ここには犬にだけ「名前」がついている。名前が呼ばれる。この1行はだれのことばか。杉山のことばか。私は「妹」のことばと読みたい。「お父さん」「お母さん」「お兄さん」は「妹」にとってひとりしかいない。同じように「犬」も一匹しかいない。だから「犬の頭をなで」と「犬」であってもいいのだが、「妹」はその犬を「ジョン」と呼びたいのだ。その名前は妹がつけたものではないかもしれないけれど、妹は「ジョン」と呼ぶ。名前で呼ぶことでしっかり犬と結びつく。頭をなでるのは「肉体」の触れ合い。名前を呼ぶのは、こころの触れ合いである。
 お父さん、お母さん、お兄さんの「怒り」には名前がない。「こんなことわからんのか」「どうしてわからない」「お前はバカだなあ」。そのとき、こころは触れ合っていないのだ。怒るときでも、相手のこころに一歩近づき、その一歩近づいたところから怒るときは「名前」を呼ぶ。名前でなくても、「お母さん、こんなこともわからんのか」と怒鳴るときは、ただ「こんなことわからんのか」と怒鳴るときとは違う。
 ここに描かれている妹は、ただ我慢しているようにみえるけれど、そうではない。自分から一歩、飼っている犬に近づいていっている。妹は、お父さんやお母さんお兄さんの知らないことを、「わからない」まま知っている。「わかっている」。

待って
待っても
待つものは来ず
禍福はあざなえる縄というのに
不幸のつぎは
また不幸の一撃
ふたたび一発
わざわいは重なるものとも
知らずに
もう疲れきって
どうでもいいと
ぼんやりしていた
それが
幸せだったと気づかずに
                                 (「待つ」)

 最終行の「幸せ」はむずかしい。度重なる不幸は「わざわい」ではない。そういう「わざわい」のなかで、なお生きていること、そのいのちの不思議は、しかし「不幸」と呼んではいけないものである。では、なんと呼ぶのか。わからないから「幸せ」と呼ぶ。そこには矛盾があるのだけれど、その矛盾のなかにある力をことばにすることはできない。どうことばにしていいかわからない。
 ことばで接近できるものもあれば、ことばでは接近できないもの、ことばではつかみ取れないものもある。知っていることば、自分がわかっていることばで言ってしまうと、それは「矛盾」になる、「矛盾」になるしかないものがある--ということを杉山は「肉体」で覚えている。覚えているから、それを使う。

 --ということと、どこかでつながると思うのだが、「肉体」でわかっていることと「頭」でわかっていることとは、ときどき違うことがある。「肉体」で知ることと、「頭」で知ることとは違う。「整理」の仕方が違うのである。

列車や電車の
トンネルのように
とつぜん不意に
自分たちを
闇のなかに放り込んでしまうが
我慢していればよいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
拡がって迎えにくる筈だ

 これはきのう読んだ「希望」の一部だが、トンネルを列車が走るとき、光がぐんぐん拡がって迎えにくる--というのは「肉体」がつかみ取った現実だ。だが、頭で整理しなおすと、トンネルは動かず、列車がトンネルの出口へ近づくに従って光が大きく見える、ということになる。
 「頭」は「肉体」の錯覚を整理しなおし、間違いを指摘する。そして、ひとは確かに「頭」で整理したことに従って行動しないとうまく動けないのではあるけれど--なんといえばいいのだろう。人間は「間違い」を生きたいときがあるものなのだ。「間違い」のなかで自分を救うことがあるのだ。
 あ、これは「正しい」言い方ではないなあ。
 間違えても、人間は生きている。その不思議。「頭」の間違いは否定され、修正される。「肉体」の「間違い」は、「間違い」とわかっていても、それでいいのだ。「間違い」を受け入れる力が「肉体」にはあるということかもしれない。

 で、(いっていいのか、どうかよくわからないが……)

 この「肉体」の「間違い」を積極的に利用した「芸術」に、映画がある。
 映画は、記念的にフィルムでできている。(今はフィルムをつかわない映画もある。)フィルムは写真の連続である。写真は一こま一こま独立している。それがあるスピードで連続上映されると、映像が動いて見える。その動きは現実の動きそのままではない。絶え間ない「分断」がある。けれども肉眼はそれを「連続」していると「間違える」。現実の動きそのままだと「間違える」。
 この「間違い」のなかにある「正しさ」を、説明しようとすれば説明できることばがあるのだろうけれど、私は「間違い」のままにしておく。
 杉山は、そういう「間違い」に魅了されたひとりである。それは「嘘」のなかにある真実に魅了されたひとり、ということでもある。
 不幸つづきは不幸でしかない。けれど、それは気がつかなかった「幸せ」であるというのは「間違い」で「嘘」だけれど、その「間違い・嘘」のなかに、「ほんもの」ではつかみとれない何かがある。

 「列車」が登場する詩は、この詩集にはほかにもある。

不合格の印を貰った日
茫然と電車の先頭に立ちつくす
電車は
迫ってくる建物を
片っぱしからなぎ倒し
左に右にかきわけ
かきわけ
驀進してゆく

速度が落ちはじめると
目に涙が……

 電車は迫ってくる建物をなぎ倒したりはしない。「頭」はそれを知っている。けれど「肉体」(眼)には、そのように見える。そしてそのように見えるとき、そこにはことばにならない「気持ち」があふれている。ことばにならないまま「肉体」になにごとかを呼びかけている。その「声」を聴いてしまった「眼」には、風景が「頭」が整理している現実とは違って見えてくる。「間違い」を「肉体」は見てしまう。
 でも、その「間違い」のなかに、「感情」の正しさ、こころの正しさがある。
 映画は、こういう「間違い」を巧みに組み合わせて一つの世界をつくるが、その映画の世界のつくり方を杉山は正確に吸収し、ことばに反映している。

速度が落ちはじめると
目に涙が……

 この電車のスピードの変化と、目からあふれる涙の交錯も「映画」そのものである。涙の動くスピード(落ちるスピード)は、どんなに遅い電車よりもなお遅いだろうけれど、ここでは電車のスピードをいっきに追い抜いて涙が動く。電車を抜きさって、涙が先へ先へと走る。電車が驀進していたときは、涙は追いついて行けなかったが、電車のスピードが落ちた瞬間に、こころが電車を追い抜き、涙となってあふれる。
 悲しみが映像にまで昇華されている。

 何かを分断し、再構成し、連続した動きを浮かび上がらせる--そういう手法、映画から吸収した手法が、杉山のことばの文法となっている。



映画の文体―テクニックの伝承
杉山 平一
行路社