夏目美知子「小窓」 | 詩はどこにあるか

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夏目美知子「小窓」(「乾河」62、2011年10月01日発行)

 「乾河」につどっている詩人たちは、ことばがとても静かである。その静かさに惹かれるが、静かというだけではその魅力を伝えることができない。でも、どう書けばいいのだろうか……。
 たとえば夏目美知子「小窓」。

玄関脇に小窓がある。そこから隣家の庭が見える。隣家は
長い間、空き家になっていて、壁も屋根も全体の雰囲気も、
次第に生気がなくなっていくが、端からはどうしようもな
い。窓は明かり取りほどの大きさなので、斜め上から見え
るのは腕で囲ったくらいの僅かな空間である。ブロック塀
の下の黒ずんだ部分や、縁が欠けた煉瓦の階段。そして、
半ば草に覆われた地面。草は枯れたり繁ったり新しい種類
が混じったり、多少の変化がある。
        (谷内注・「端」には「はた」、「縁」には「ふち」のルビがある)

 小窓から見えた風景を淡々とスケッチしているだけなのかもしれない。
 そのことばのなかで、私は「端からはどうしようもない。」という部分に、強く惹かれた。「端から」ということばのつかい方に、何か不思議なものを感じたのだ。いま、私は「端から」ということばをつかわない--つかわないと思う。かつてつかったかどうか、よくわからない。いわば、あまりなじみのないことばである。しかし、意味がわからないわけではない。逆に、うまくことばでは説明できないが、あ、そうか「端から」というのはこういうことか、と「肉体」の深いところで納得させられる「響き」がある。
 「読んだ」というよりも「聞いた」記憶がある。その「聞いた」ときの「響き」が私の「肉体」のなかに残っている。「端から」というとき、そこにあらわれる「距離」のあり方が、ふと「肉体」のなかにもどってくる。
 「端」というのは不思議な距離である。中心からは離れている。まさに「端(はし)」なのだ。しかし、それが「端」であるということは、「中心」がどこかにあり、それとはつながってもいる。
 それなのに「どうしようもない」。
 あ、私は、「端」ではなく「どうしようもない」に誘い込まれたのかな?
 そうではなく、「端」と「どうしようもない」ということばの「距離感」に惹かれたのかもしれない。
 「中心」とつながっている。けれども「端からはどうしようもない」ということがある。力が及ばない。--あるいは、それは力を及ぼしてはいけないということかもしれない。その「距離」のあり方が、ふいに「そこから隣家の庭が見える」の「見える」につながっていく。
 「見る」ではなく「見える」。「見える」だけではなく、夏目は「見ている」(見る)のだが、「見える」と書く。その「見える」に隠れている「肉体」と「意識」の関係が、まさに「端から」なのだ。離れている。そして、離れていながら「見る」という「肉体」でつながっている。しかし、「見る」という風に自分の「肉体」を駆り立てていくわけではない。
 自分の「肉体」が何かに関係する、そのときの動きを最小限におさえている。
 ここに夏目の「静かさ」の理由がある。
 そこにあるものを「受け止める」けれど、それに対して積極的にかかわるわけではない。「肉体」は、対象の「端」にあるだけで、「中心」へは向かって行かない。「中心」に対して働きかけない。

急に空が暗くなったと思うと雨が降ってくる。窓枠の向こ
うで、石蕗の葉が雨粒を受け、上下に揺れ始める。小石も
破けた金網も地面も次々に濡れていく。ただ黙って強い雨
に打たれている。

 こう書くとき、夏目は「石蕗の葉」になっている。石蕗の葉とは離れた場所にあって、しかし、ことばで「石蕗の葉」になる。そして、上下に揺れ始める。
 「雨粒を受け」ということばのなかに「受け」があるが、ことばで何かを書くことは、その対象になることで、対象になることは、その存在が「受け止めている」ものを「受け止める」ことである。「受け止める」という運動の中で、「私(夏目)」と「対象」が一体化する。けれど、その「一体化」はあくまで「ことば」のなかだけで起きることであり、「私の肉体」と「対象」は離れている。「私の肉体」は「対象」の「端」にある。「対象」の中心と「私の肉体=端」をつなぐのは、「ことば」だけである。
 「ことば」は「端」と「中心」をつなぐが、その連絡はただ「受け止める」ことである。

        情景は誰かの横顔のようでもある。私は
それを見ている。降りしきる音が辺りを包み込み、そのた
めに反って静けさがある。すぐ傍なのに、どこか遠いとこ
ろのように思える。

 「情景は誰かの横顔」ではなく、「夏目の横顔」である。夏目は情景をことばにして受け止めることで情景になる。そして、ことばにすることで「それを見ている」。ことばにするということは、「私」を「端」に置くことでもあるのだ。
 書くことは対象に接近することだが、同時に、対象から離れることでもある。そして、その離れ方のなかに「客観性」というものがあるのだが。あるいは、その離れ方の「距離」が一定であるとき、そこに「文体の安定」というものが生まれてくるのだが、まあ、これはちょっと脇においておいて……。
 「降りしきる音が辺りを包み込み、そのために反って静けさがある」ということばのなかの「反って」。ここに夏目の「思想」がある。ここでは、夏目は雨音と静けさの「矛盾」のようなものを書いている。芭蕉の「しずけさや岩にしみ入る蝉の声」のような「矛盾」を書いている。その「矛盾」を「反って」ということばで、はっきりとらえている。そこが芭蕉の句とは違うところだ。
 何かを書く、ことばで何か「真実」を書く、ことばでしかとらえられない「真実」を書くとき、そこには「反って」ということばに代表される「矛盾」が入り込む。そして、その「矛盾」が「矛盾」として成立するためには、「端」と「中心」という構造が必要であり、「端」と「中心」のあいだに広がる「間」が必要なのだ。「間」のひろがりのなかで、「矛盾」は運動する。

すぐ傍なのに、どこか遠いところのように思える。

 「すぐ傍」と「どこか遠いところ」には、実は、計測できる「間」(ひろがり)はない。計測しようとすると、それは逆に(夏目なら「反って」と書くだろう)ぴったり重なる。
 この「矛盾」は「どうしようもない」。解消しようがない。

 「端(はた)」ということばに誘われて、私は、そんなことを考えた。



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夏目 美知子
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