稲垣瑞雄「襤褸の僧」 | 詩はどこにあるか

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稲垣瑞雄「襤褸の僧」(「双鷲」76、2011年10月05日発行)

 稲垣瑞雄は散文(短編小説)も書いている。「襤褸の僧」は「螺旋の声」という「小詩集(?)」のうちの冒頭の一篇である。詩の形式(?)で書かれているが、短編小説のようなところがある。

田舎寺の山門に
ランのる僧は
しっかりとくくりつけられていた
キリストの真似か
それともただのお仕置か
眼に涙を溜めながらも
僧は毒づいていた
よくもこお俺さまを
コキュにしてくれたな
往生際の悪い坊主だ
妻の手を曳いて
駆け抜けてゆく男の声が
椎の樹々に囲まれた境内の
あちこちに谺する
涙も枯渇する頃
僧はようやく気がついた
自らを雁字搦めにして
この寺に閉じこめたのは
妻でも男でもなく
この俺自身ではなかったか
全身からこぼれ出る汗が
錐揉み状に
手脚を縛り上げていく
こうやって俺はまた
ぬるま湯につかっていくのだな
声が消えぬうちに
僧はぼろぼろになって
溶けはじめた

 「キリスト」と「コキュ」が「僧」にはなじまないが、なじまないがゆえに(?)、ストーリーをくっきりと浮き彫りにする。ほかのことばだったら、もっとどろどろした人間関係、しがらみがあふれてきそうだが、そういうものを「キリスト」という異質な存在、「コキュ」というスノッブ(?)なことばが、寺とか僧とかがもっているめんどうくさいものを洗い流していく。寺が舞台、登場人物が僧なのだけれど、ちょっと、そういうものを忘れさせてくれる。
 それがいいことかどうかというと、また別の問題になるかもしれないけれど……。
 まあ、おおげさというか、芝居染みているというか。わざわざ、寝盗られ男になってしまった僧を、いくら田舎寺とは言え、山門に縛りつけることはないなあ。そんなところに縛りつけたら目立ってしまう。せいぜい、本堂の柱にしなさい--というような忠告は、でも採用してもらえないだろうなあ。
 詩、なのだから。
 現実ではないのだから。

 と、書きながら。一か所、うーん、とうなってしまった。
 突然あらわれる「現実」に、びっくりしてしまった。

こうやって俺はまた
ぬるま湯につかっていくのだな

 この、「こうやって」をどう読むか。
 私は「自らを雁字搦めにして/この寺に閉じこめたのは/妻でも男でもなく/この俺自身ではなかったか」という自問のことだと思った。
 妻が悪いのではない。妻を寝盗った男が悪いのでもない。俺自身が悪いのだ。俺自身に原因があるのだ。
 --こういう自己否定、あるいは自己批判をどうとらえるか。
 ふつうは厳しい反省と思うかもしれない。ふつうは、あの男が悪い、おんなも悪い、俺は悪くはない。俺は憐れな人間だ。同情されていい人間だ、と思うかもしれない。
 けれど、稲垣の書いている僧は「自己批判」している。
 そして、そのこと、自己批判することを「ぬるま湯につかっていく」と、もう一度自己批判する。
 「自分が悪いのだ」というような「自己批判」は「自己批判」ではない。あまやかしである。そんなふうにして「自己批判」してみせれば、同情が集まる。
 山門に、みせしめのようにしてくくりつけられている姿も同情を呼ぶ。着ているものが涙でよごれてどろどろになっていれば、なおのこと同情を呼ぶ。
 見せかけの「自己批判」は、同情という「ぬるま湯」にどっぷりつかることなのである。
 同情だけではないかもしれない。
 「俺が悪いんだ」と自己批判してしまえば、もう、それから先、ことばは動いてはいかない。僧のなかで、ことばはとまってしまう。
 ふいにやってくる怒り、哀しみの衝動に突き動かされることもなくなる。
 自分の感情からも甘やかされてしまうのだ。
 これは短編小説の「ストーリー」のようであって、実は長篇小説の「テーマ」である。人間は、自分をどうとらえるのか。「自己批判」は自己に厳しい態度にみえるが、そうではなく、実は自分自身を甘やかすことにならないか。他人を批判するとき、そこから「戦い」が始まるが、「自己批判」にとじこもっていれば「戦い」はない。つまり、それは他者との接触がないということでもある。

 稲垣は、ここでは「哲学」のありかを、ただ暗示している。
 そうか、その暗示こそが、詩なのか、と思ったのだった。



半裸の日々
稲垣 瑞雄
思潮社