詩には「意味」がわかっていて書くものと、意味がわからないから意味を探して書くものがある。そして、後者の場合、探している意味も実際のところは知らないものである。知らないけれど探すというのは矛盾しているようだが、そうではないかも知れない。知らないけれど「予感」があるのだ。そして、その「予感」というのは、ことばに触れた瞬間に「肉体」が感じてしまうものなのだ。誰かに会った瞬間「あ、このひとが好き。このひとが運命のひと」と感じるようなものだ。そんな「運命」などほんとうはなくて、あとから、ひとが勝手に「理屈」をつけていくものだと思うけれど。つまり、なんとなくだんだん好きになっていくだけなのだと思うけれど。
榎本櫻湖の詩を読んでいて感じるのは、それに似たことがらだ。
書こうとしていること、その「意味」など、あとからやってくる。ただ、こういうことばを書いてみたい。書けば、その先に何か新しく動くことばが出てくるはずだ--という予感、「肉体」が感じる予感で書いているように思う。榎本の「肉体」が、ことば自身の「肉体」をどこかに感じて、それに「ちょっかい」を出し、反応を見ながら書いている、という感じである。
「ことば」を信じすぎている--といえるかもしれない。つまり、ことばに肉体があり、ことばに肉体かあるかぎりは、ことば自身で動いていくということに期待しすぎているといえるかもしれない。
でも、(でも、でいいのかな?)
私は、実は作者が自分自身を信じて書く詩よりも、自分自身のことなどどうでもよくてことばの方が信じられると思って書いている詩が好きなのである。ことばが勝手に自己増殖というか、勝手に広がっていく詩が好きである。
たとえば、「幕間/林檎の川を剥く妊婦」の書き出し。
……湖底に、ひっそりとおかれた疚しさの林檎の皮を、丁寧に剥くきらびやかなナイフ、蛇の這った痕に残る砂の畝、波形を辿る指先から滴る血は蛇の喉を潤し、優しい牙をそっと喉元へあてる所作を、それは睾丸ではなく、隠蔽された前立腺の、恙ない悦び、失われた恥部へ赴き、叢る狂おしい二十日鼠の穢れを啜る、艶やかな黒髪の娘、剃刀のつけた筋は次第にみだれ、刃をつたう汁は、匂いたち、たなびく、
榎本が書こうとしていることは、榎本がまだ知らないことである。そして、その知らないことは、けれど榎本の知っている「林檎」と「蛇」ということばといっしょに動いているということを榎本の肉体は知っていて(おぼえていて?)、その記憶を頼りにことばを動かすのである。そうすると、「林檎」「蛇」に反応して「疚しい」だの「睾丸」だの「前立腺」だの「悦び」(つつがないよろこび--というのは、私には想像がつかない。悦びに憂いなどあるはずがない、と私は思う)だの、「恥部」だの「穢れ」だの「娘」だのといったことばが群がってくる。「指先」「血」「滴る」「潤す」「優しい」「牙」「艶やか」ということばも群がってくる。「啜る」「乱れる」「汁」「匂い(匂う)」も群がってくる。それやこれの、セックスを描くときのことばが群がってくる。
榎本は、そのことばを「整理しない」。この「整理しない」というのは、天才の仕事である。
群がってくることばを整理せず、そのかわりに、強引に「連結」させてしまう。ほぐすことはしない。こんがらがったときは、そのこんがらがりを利用して、いっそう強靱な結び目をつくってしまう。
なかには、「蛇の這った痕に残る砂の畝」というような、ちょっと違和感があることばも強引に連結される。この畝自体は林檎を剥いたナイフに残る汁の痕、その盛り上がりから呼び寄せられたものだろうけれど、そういう湿ったよごれの盛り上がりと「砂(砂漠、乾燥)」は、私には不自然に思える。想像でいうのだが、榎本は林檎の皮を剥いたときに汁がナイフの刃先に残るということは肉体で知っているだろうけれど、畝というものをつくった経験がないのだろう。鍬で土を掬い取りもりあげるというようなことを「肉体」でおぼえてはいないのだと思う。
まあ、いいけれど。
で、この「連結」によって、榎本は「世界」をいくつにも重なり合った「層」にして見せる。重なり合いながら、ずれる。その瞬間に、何かが見えたような気がするのである。いま書いた「畝」にもどると、榎本の書いている「砂の畝」というのは、この書き出しのなかでは「異質」なものなのだが、その異質によって、榎本にとらえられていない「蛇」そのものの「肉体」が見えてくるのである。「林檎・蛇・セックス」と連結されてしまうだけではない何か、蛇にしかできない何かがふっと蛇そのものとなってあらわれてくるのである。
ここから蛇がほんとうに動いていけばもっとおもいしろいのだけれど、まあ、セックスへもどってくる。一生懸命、もどろうとする。そのときの、むちゃくちゃ(?)がいい。強引さがいい。これだけことばが引き寄せ、群がらせ、そのままにしておけば、きっといつかは醗酵して毒になる。あるいは強い酒になる。(毒も、酒も、比喩ですよ。)楽しみである。
あ、私の書いている感想は「正しい感想」ではないかもしれない。ましてや、「正しい批評」ではありえないのだが、こんな具合にしか書けないこともある。
どこかへことばが広がっていく--その広がっていく力をただ感じてみるだけのことである。
そのことばが、いつか私のなかで動きだすかどうかもわからないけれど、動きだすまで待っていられたらいいだろうなあ、と思うのである。