シアーシャ・ローナンをはじめてみたのは「つぐない」だった。とても透明な演技をしていた。肉体がそこにあるのに、肉体であることを感じさせない。というと変だけれど、こころ、いや精神がすっきりと見えるのである。若いときのレオナルド・ディカプリオに似ている。肉体がはじめからそこにある感じで、全体にとけこみ、スクリーンの精神を統一して動かしていく。
「つぐない」では、姉の恋愛をじゃましてしまう幼い少女の、とりかえしのつかない「意地悪」をしてしまう役どころだが、おもわず許してしまう。その「気持ち」がまるで演じているシアーシャ・ローナンの肉体のなかにあるのではなく、見ている私の肉体のなかにあるような感じがする。スクリーンに引き込まれる、というより、劇場全体がスクリーンになって、シアーシャ・ローナンと私の区別がなくなる。シアーシャ・ローナンのなかで動いている「本能」が、私の「本能」になってしまう。--その瞬間的な、「本能」の一体化のようなものが、「肉体」にじゃまされずに、成立してしまう。
まるで自分を見る、という感覚になる。そういう感覚に誘い込む演技である。
この映画でも同じである。スクリーンに、何の違和感もなく溶け込み、スクリーンを統一し、彼女の動きにあわせてスクリーンが動いているような錯覚に陥る。
映画のスタイルが違うから比較にならないかもしれないが、「レオン」のナタリー・ポートマンを思い浮かべると違いがわかる。ナタリー・ポートマンの方は、スクリーン(あるいはストーリーというべきか)から、いつも浮き上がっている。ナタリー・ポートマンの背後にストーリーがあって、ストーリーとは無関係にナタリー・ポートマンを見てしまう。まあ、それが俳優の肉体というものだから、どっちがいいとはいえない。ナタリー・ポートマンの方が「女優」の「資格?」が上という印象が残る。そういう「存在感」は私は好きではあるのだが、シアーシャ・ローナンの演技もとても好きなのである。
あるいは、「わたしを離さないで」のキャリー・マリガンと比較するとおもしろいかもしれない。キャリー・マリガンの演じているのは、シアーシャ・ローナンと「同工異曲」の役どころである。DNA操作は関係ないかもしれないが、まあ、人工的につくられた「人間」である。キャリー・マリガンは「人工人間」なのだけれど「こころ」をもってしまったという役だから簡単には比較できないけれど、どうしてもその「肉体」の存在感、「肉体」が抱え込む「感情」が前面に出てしまう。(まあ、そういう役なのではあるけれど)。それはそれでいいのだけれど、そして魅力的なのだけれど、スクリーンを統一するときの「力」が違う。方法が違う。不透明さ、わからなさで統合してしまう。
シアーシャ・ローナンは、そうではない。「わかる」ことだけで統一する。あまりにも「透明」に、まるで向こう側が見えてしまうような「肉体感覚」で統一する。向こう側というのは「肉体の内部」でもあるんだけれど。
どうもうまくいえないが、ナタリー・ポートマンやキャリー・マリガンは、不透明さ(といっても、まあ、半透明といった方がいいかも)を前面に出すことでスクリーンを支配するのに対し、シアーシャ・ローナンは透明感でスクリーンを支配ではなく、内側から統一する。それがおもしろい。
このシアーシャ・ローナンの演技が「化ける」と「エリザベス」のケイト・ブランシェットになるんだろうなあ。「人間」を演じているのだけれど、その演じている「対象」は「肉体」ではなく「精神力」。「精神力」というのは「肉体」と違って、見えないから、ちょっと困る。「肉体」なら、あそこが魅力といえば、それがそのものとして見えるけれど、「精神」は「ことば」にしないと見えてこないからねえ。--その、ことばにしないと見えてこないものを、シアーシャ・ローナンは、「肉体」を透明にすることでスクリーンにあふれさせる。
うーん、と、私はうなってしまうのである。
そして、というのはちょっと飛躍があるのだけれど、このシアーシャ・ローナンの演技がそう思わせるのかもしれないけれど、この映画の映像の透明感がまた不思議である。シアーシャ・ローナンの演技が乗り移ったよう感じがする。
雪の森。モロッコ(だったっけ?)の砂漠。ベルリン。舞台は大きくかわるのだけれど、どの風景もよごれていない。荒れた砂漠も、ごちゃごちゃしているベルリンも、「透明」である。別なことばで言うと、ストーリーをぜんぜんじゃましない。
ある意味で、まるで「頭の中」を見ている感じ。「頭」なのかで動くものは「知っているもの」だけだが、どの風景も見た瞬間から「知っている」という感じで「肉体」になじんでくる。
その「知っている」世界で、最後に、ほら、「知っている」ことばが繰り返されるでしょ? 「心臓をはずしちゃった」(アイ・ブ・ジャスト・ミスド・ユア・ハート、かな?)というシアーシャ・ローナンことばが繰り返され、「映画」が閉じられる。
「つぐない」のジョー・ライト監督とシアーシャ・ローナンで、「つぐない」とはまったく違った映画を作り上げているのも、おもしろい。シアーシャ・ローナンに何ができるか、ジョー・ライトにもわからず、試行錯誤しているのかもしれない。
このふたりの次の映画こそ、おもしろいのかもしれない。
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