誰も書かなかった西脇順三郎(227 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 『壌歌』のつづき。「Ⅲ」の部分。--つづき、と書いたが、つづきではないかもしれない。適当にページを開いて、思いつくままに感想を書くのである。

ハチ公はまだ生きていた
あの牢獄のあるところの下の
道を川にそつてのぼると
シブヤの駅の前に屋台店を
出す人々のふるさとがあつた
犬はそれを知つて五時ごろになると
駅に出かけて屋台から屋台へと
ぐるぐるめぐつていると主人が帰つて来る

 「あの牢獄のあるところの下の」はとても変である。こんな日本語はない、というと語弊があるかもしれないが、こんないいまわしは、へたくそな中学生の「翻訳」のなかにしかない。しかし、へたくそだから、そこに「意味」ではなく、別なものが動く。(うまい、へた、というのは「意味」が簡潔に伝わるかどうかという「経済学」「流通学」の問題なのだ。--機能主義の視点なのだ。)
 「あ」の牢獄の「あ」るところ、あ「の」牢獄「の」あるところ「の」下「の」、あの「ろ」うごくのあ「る」とこ「ろ」のしたの……そのことばを駆け抜けていく不思議な音楽。耳に響くだけではなく、喉や舌や口蓋にも共鳴がある。
 そして、その行の「の」と「ら行」の交錯が、次の行の「のぼる」に自然につながる。「のぼる」は「下の」と「意味」でつながるけれど、「意味」よりも音の交錯の方が「肉体」に響いてきて、とても気持ちがいい。

 「意味」的におもしろいのは、「シブヤの駅の前に屋台店を/出す人々のふるさとがあつた」の2行である。「シブヤ(渋谷)」と「ふるさと」が突然、出会う。離れた場所が突然出会い、その瞬間、「ここ」が「ここ」ではなくなる。ふたつの「場」をつなぐ別の「次元」がはじまる。
 これは「意味の音楽」「意味の和音」のようなものである。
 西脇のことばは、こういう「意味の音楽」もおもしろい。それは、ことばの「音の音楽」が「肉体」を刺激するのに対して、「頭」を刺激する。
 「頭」が刺激されると、どうなるか。
 西脇は、不思議なくらい「正直」に、ことばを動かしている。

生物の忠節は待ち人の沈黙の
中に耳をそばだてて
永遠の旅人は帰らずを
知らないで町つづけている
噴水の永遠の海原の
さざなみしかきこえない
主人がもつていたあの森林も
今は税務署の空地になつた
文明の天変地異は
土手で摘草する女の
住むところを失くしてしまつた
ああ思考を極度に追つて行くと
こんなざまになる
生命を失つてセミのぬけがらだ
人間の思考をのばすといつも
説教に終わつてしまう

 「思考」(頭の中のことば)は「説教」になる。
 そうわかっているから、西脇は、そこに「説教」以外のもの、それ自体で動く「音楽」を、さっと入り込ませる。
 「噴水の永遠の海原の/さざなみしかきこえない」という「音」を「絵画」のように見せる運動。噴水のまわりの水面が海に変わり、また噴水にもどってくるすばやいきらめき。
 「文明の天変地異は/土手で摘草する女の/住むところを失くしてしまつた」という「翻訳調」の構文。「天変地異」を主語にするなら、住むことろを「奪つてしまつた」だろうし、「失くしてしまつた」を述語にするなら、「女は」住むところを失くしてしまつただろう。
 「文体」の意識を、西脇のことばはくすぐる。くすぐられて、私の中の「文体」がこそばゆい。そのこそばゆさのなかに、「音楽」としか言えないものがある。(もっとほかのことばがあるのかもしれないが、こそばゆさのなかを疾走するのは、私には「音楽」である。)
 そして、

こんなざまになる

 という突然の、粗野な口語。そのリズムが、こそばゆさを叩きのめす。
 こういう変化--動き、音のおもしろさは、西脇特有のものである。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店