監督 トマス・ヴィンターベア 出演 ヤコブ・セーダーグレン、ペーター・プラウボー
主役を演じている役者ヤコブ・セーダーグレンに引きつけられた。
彼は、何も悪いことをしていない。最初に、少年時代の様子が描かれる。アルコール中毒の母親にかわって、弟とふたりで、生まれたばかり(たぶん)の赤ん坊を世話している。その赤ん坊が死んでしまう。
この映画では、その赤ん坊の死についてだれに責任があるのか、いっさい描かれていない。育児を放棄していた母親の責任はどうなったのか。そして、その後、ふたりの兄弟がどこでどんなふうにして育ったのかも描かれていない。
映画は突然、その母の死によって兄弟が再会するところから描いている。それも、兄弟の暮らしを別々に描いているので、彼らがどんなことを考えているのか、実はよくわからない。
よくわからないのだけれど、引きつけられる。
目が、とても静かである。彼には、ひとには言いにくい「過去」がたくさんある。おさない赤ん坊を「死なせてしまった」という心の傷がある。語られることはないが、そういう「心の傷」を体に入れ墨として残している。心の傷は見えないけれど、刺青は見える。それは、いわば男の「存在証明」のようなものなのだ。その刺青のひとつに、恋人のイニシアルもある。
その男が、恋人の兄と出会い、事件にまきこまれる。恋人の兄が、男の愛人(?)を殺してしまう。その「罪」を、男は被ろうとする。
なぜ?
いろいろ想像することはできるが、理由はわからない。男は語らないからである。
その語らない肉体が、その目が非常に、強く印象に残る。
語っても、わからない。いや、語れば、そこで起きたことは「わかる」。論理的に(?)、説明がつく。そして、男が「無罪」であることも簡単に証明できる。けれど、それは「事件」を説明するだけであって、そのとき男が何を感じたか--それはわからない。
だいたい「事件」が起きたとき、問題になるのは「何が起きたか?」「だれが起こしたか?」「その理由は(なぜ?)」「どのようにして?」「いつ?」ということだけである。いわゆる5W1Hが明確になれば「事件」は説明できたことになる。そこでは、そのときでは「事件」の当事者は「どう感じたか」は問われない。
当事者がどう感じたかを配慮していたら、「事件」は見えなくなってしまう。「事件」は解決されないからである。
けれど、ほんとうの「事件」は、当事者の心のなかで、ずーっと生き続けている。「事件」は終わらない。
男にとっては、最初の「事件(赤ん坊の死)」さえ解決していない。赤ん坊の死に、彼が直接関係していないのと同じように、愛人の死にも関係していないけれど、愛人を守るための最大の配慮をしなかったということでは、赤ん坊の死の場合と同じである。「気づいていい兆候」はあった。それを見逃した、ということはできる。もちろん、それは「過失」ですらない。過失ですらないけれど、男は、そこに「責任」のようなものを感じてしまう。それは、いくら説明してもだれにもわかってもらえない--と男は知ってしまった。だから、語らないのだ。そのかわりに、刺青を肉体に残すのである。
刺青--そのうさんくささ。まっとうな人間は、刺青などしていない。「まっとうではないもの」が自分の中にある、ということを主人公は肉体の傷(刺青)として、人の眼にさらすのである。
この、まっとうではないという感覚は、もちろん主人公の場合、正しいとは言えない。つまり、彼は何も悪いことはしていない--という具合に、たとえば、私は言うことができるが、それは私の感覚であって、主人公の男そのものの「感覚」ではない。男そのものが感じていることではない。男そのものが感じていることは、どんなにことばをついやしても、たぶん、わからない。
そのわからなさを、ヤコブ・セーダーグレンは、肉体で表現する。「刺青」はもちろんメーキャップだから(肉体表現の補助材料だから)、そんなもので心は表現できない。わからなさは表現できない。表情もなるべくわからないように、ヒゲが顔をおおっている。ただ、目だけが、私たちに(観客に)さらされている。その目で、ヤコブ・セーダーグレンは表現するのである。
表現する--と書いたが、これは一種の矛盾である。つまり、ヤコブ・セーダーグレンは、何も語らない。目には、悲しみや怒りや喜びがあらわれるものだが、常にそういうものを目の奥に隠すのである。引き下がらせるのである。
映画の原題は、「サブマリーノ(適当に読んでいるので正確ではないかもしれない)」である。デンマーク語はわからないので適当に推測するが、潜水艦に通じることばだろう。深く水に潜りこんでいる。水に隠れている。
そのことばが象徴する何かのように、ヤコブ・セーダーグレンは、その目の奥に、その流すことのない涙の奥に(涙さえも隠して)、すべてを沈めてしまう。
その目を、私は私の肉体で再現できる。--できない。そのできないことへの、遠い距離に、私はひどく引きつけられるのである。
わからない心を生きている。それを、具現化している。それは、まるで役者を見ているという感覚ではなく、ほんとうに「事件」を生きた人間を見ている感覚なのである。
リアリティーということばでは言い表せない。私が感じたことを伝えることはできない。そういうものを感じる。
弟の方は、ちょっと演じる上で損をしているかもしれない。弟は、兄とは違って、「悪人」である。麻薬常習者だし、母の遺産をもとに「売人」をやりはじめている。
おもしろいのは(と言っていいのか、よくわからないが)、この弟には「名前」がない。兄は「ニック」と呼ばれるが、弟は名前を呼ばれない。呼ばれたかもしれないが、私の耳は聞き逃した。聞き取ることができなかった。「字幕」では常に「弟」ということばがあてられていた。
弟は、兄の「心」を支えるもうひとつの「肉体」のような感じで、映画に登場してくるのである。結婚して、子供をつくり、その子供に「マーティン」という名前をつけている。それは、兄が、望みつづけ、同時に、拒絶しつづけてきた「夢」である。隠しつづけてきた「欲望(本能)」である。
この弟が自殺し、マーティンが取り残され、その子供を引きつけるために、「事件」のすべてを語り(この部分は、やはり省略されている)、兄がマーティンと生きはじめるというのは、「神話」というか、「ギリシャ悲劇」のようなダイナミックなカタルシスの構図で、ラストシーンには知らずに涙が出てくる。
それにしても「未来に生きるきみたちに」といい、この「光のほうへ」といい、デンマーク映画はすごい。ハリウッドが描くことを放棄してしまった人間の「いきる力」をていねいに描いている。役者たちは感情を「演じている」のではなく「生きている」。だから、感想を書くのも、なかなかやっかいである。「映画」であることを忘れてしまうのだ。「映画」はつくりものなのに、つくりものであることを忘れて、登場人物の幸せを思わず祈ってしまう。