監督 ミケランジェロ・フランマルティーノ 出演 ジュゼッペ・フーダ、犬、子山羊
イタリアの山村。山羊を飼っているぜんそくの老人が死に、子山羊が生まれ、迷子になり、その子山羊が身をよせた巨木が切られ、祭りのポールにつかわれる。祭りのあと、木は炭焼き小屋で炭になる。四つのいのちの、関係があるようなないような「連鎖」がたんたんと描かれる。「関係」をつけたければつければいい。
犬がいいなあ。ぜんそくで歩けなくなった老人のところにもどってきたり。山羊を放牧させる時間になっても家から出てこないので、坂道にとめたトラックの「滑り止め」の石をずらして、トラックを暴走させたり。トラックは山羊の囲いを壊し、そこから山羊が山へ向かう。ほかの場所へいく山羊もいるんだけれど。犬にそこまでできるかどうかわからないけれど、まあ、映画だから。
子山羊もいい。小屋のなかの一番高いところ(箱の上)で、「お山の大将ごっこ」。のぼりつめたら、ほかの2匹に追い落とされる。予告編ではこのとき「めええ」と鳴くんだけれど、本編では鳴かなかったのが残念だけれど。思わず、声をあげて笑ってしまう。
母親が放牧から帰ってきたとき、子山羊がそれぞれの母親のところへ行くシーンも好きだし、母親が子山羊を「めえええ」と呼ぶのもいいなあ。
このシーンがあって、はじめての放牧の時、子山羊が迷子になるシーンが生きる。溝にはまって、みんなについてゆけない。やっとはい出し、みんなを追いかけるがどこにいるかわからない。そこで「めええ」。誰も答えてくれず、さまよう。かわいそうだけれど、(かわいそうだから)、引き込まれる。大きな木の根元で眠る姿は、うーん、どうなんだろう。あまりにも「人間化」しすぎていないか。
巨木が祭りのために切りだされ、その後炭になるというのは、「いのちの自然な連鎖」というより、人間が作り上げていく「人工的な連鎖」。そこに象徴されるように、この映画には「人工的」な操作が入り込んでいる。それが、なんといえばいいのか、イタリアの小さな村の自然な美しさを傷つけている。無理に「連鎖」させる必要はないのになあ、と思う。
子山羊の迷子と巨木の話は、まったく関連性をもたせなくていいのに、と思う。小さな村、その舞台が自然に全体を統一するはずだから。
犬のシーンがそれを証明している。巨木の祭りとは別の、キリストの祭り。牧師の手伝いをする少年が遅れてくる。その少年に向かって、犬が「わんわん」。少年は犬が恐くて、路を通ることができない。石を遠くへ投げて、犬の気を逸らそうとするがうまくいかない。カメラはただそれをとらえているだけど、おもしろいねえ。田舎の道の感じ、犬の感じ、少年の気持ちの動きがそのまま統合されて「村(世界)」になる。犬と少年は「対立」しているんだけれど、その「対立」を含めて、全体が融合する。宇宙(世界)になる――この感じは好きだなあ。
「人工的操作」によって映画は映画らしくなる(ストーリーが出来上がる)のだけれど・・・「田舎」を描くときは「人工的」なものを入れてしまうと、そこに「傷」が残る。そのことを、この監督は、一瞬忘れてしまったのかもしれない。それが残念。自然も、使い込まれた家の古びた美しさ、坂道や階段の感じがとても美しく、印象的なのに。