テレンス・マリック監督「ツリー・オブ・ライフ」(★) | 詩はどこにあるか

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監督 テレンス・マリック 出演 ブラッド・ピット、ショーン・ペン、ジェシカ・チャスティン、フィオナ・ショウ

 私はこういう映画が大嫌いである。「美しい」映像を断片的に見せる。そして、その美しさに「神」を代弁させ、人間の弱さを対比させるという作品が大嫌いである。この映画は、映像に「神」を代弁させるだけでは満足できずに、登場人物に「神」について語らせてもいる。
 というより、そこにある「もの」をカメラで写し取るだけでは「神」を描けなかったのだね。何を写し取っても「神」を感じさせることができないのだとしたら、それは「神」の不在そのものを証明していることになる。何か特別な「美しいもの」だけが「神」の存在の証明というのでは、ばかばかしくて、欠伸が出るばかりである。
 「悪趣味」に輪をかけているのが、宇宙や生命の誕生、地球の歴史(?)を連想させる映像をつらねることである。そうすることで映画に壮大さが出るとでも思ったのだろうか。だれがつくったか知らないが、水辺で恐竜が歩くシーンは、恐竜が歩くにもかかわらず、水面に波紋も立たないという「ご立派」なCGだった。このCGが特徴的だが、あまりにも安直なのである。こうすれば、こう想像するだろう--という「既成概念」を映像でなぞっているだけである。
 手持ちカメラで映像のフレームを揺らしたり、わざと映像の「枠」から「世界」をはみださせるのも無意味である。人間はいつでも「枠」をはみだすものだが、それは「枠」が固定されているからである。動く「枠」からはみだすのでは、人間がはみだしたことにならない。
 カメラが勝手に演技している。
 カメラが演技する映画も好きだが、この映画のようにほとんど全編、ただカメラだけが演技する映画では映画にならない。役者がいる意味がない。

 この映画のすくいは、ショーン・ペンの子供時代を演じる少年である。ショーン・ペンそっくりなのでびっくりするが、彼がブラッド・ピットの「暴力」に耐えながら反抗心を強めていくときの演技がとてもいい。
 役者にしっかり演技をさせ、人間の感情をていねいに描き、その上で、人間の感情を無視してそこに存在する自然の美しさ、木の美しさ、水の美しさ、風の美しさ、さらには人間が作り上げた建築物などの絶対的な美しさを対比させればいいのに、と思わずにはいられない。
 それにしてもなあ。
 ブラッド・ピットが失業して、一家で引っ越して、それから先が完全に省略されて、突然、ショーン・ペンが「大成功」を収めているというストーリーはむちゃくちらゃすぎる。子供時代のショーン・ペンが弟とけんかしていて、弟がショーン・ペンを許す--そこから寛容さを知り、「神」に目覚め、成功していくというのは、それはそれでいいけれど、もう少し、どんなふうに人間的に変化していったかを描かないと、人間を描いたことにならないのでは?

 「シン・レッド・ライン」もこの映画も、私は汚れたスクリーンで見ている。本来のテレンス・マリックの美しい映像から遠い映像を見ている。そのため、何かを見落としているかもしれない。あるいは、そのおかげで、テレンス・マリックの奇妙なマジックに騙されずに見ているのかもしれない。--どっちだろう。
                           (08月12日、中州大洋1)





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