モハメド・アルダラジー監督「バビロンの陽光」(★★★★) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

監督 モハメド・アルダラジー 出演 ヤッセル・タリーブ、シャーザード・フセイン、バシール・アルマジド

 サダム・フセイン以後のイラクを描いている。「以後」といっても、「直後」である。クルド人の老婆と少年が父の消息を尋ねて旅に出る。歩いて、ヒッチハイクして、バスで……。
 忘れられないシーンがある。
 老婆が「集団墓地」(惨殺した「敵」を埋めた場所)で、息子(少年の父)を探していることを語る。隣では別な女が夫を探していると語る。あとからやってきた男(老婆と少年に付き添っている)は、女に「何を話していたのか」と聞く。女は「「ことばはわからない。けれど悲しみはわかる」と答える。あ、老婆はクルド語を話し、女はアラブ語を話していたのだ。--私はクルド語とアラブ語を区別できないから、二人が違ったことばを話していたとは思いもしなかった。「字幕」を読みながら「意味」を理解していたが、そのとき二人が違うことばを話していたとは知らなかった。
 何度も何度も、老婆がクルド語しか話せないということが描かれているのに、私はそのことを「実感」として感じていなかった。
 この映画には、そういう「実感」として知らないことが、非常にたくさん描かれている。イラクの荒れた大地。その大地の中を走る道路。ひとは、どんなときでも「ここ」と「どこか」を行き来しているという証。山羊やバス。トラック。そういう自然や目に見える何かだけではなく。
 たとえば老婆が決められた時間に礼拝する。その宗教観。実直な信仰を生きる人がいる一方、神など信じないという人。祈ったって何の役にも立たなという人。クルド人を惨殺したサダムの兵士--そのなかには惨殺を苦しんでいる人がいるということ。この映画の老婆と少年のように、「内戦」によって死んでしまった父や夫を探し回っている人がいるということ。
 あるいは、老婆と少年をバグダッドまでトラックでのせていってくれる男が、高い乗り賃をとっていたけれど、やがて親切な男にかわるということ。老婆と少年がはぐれそうになったとき、煙草売りの少年がバスを必死で止めてくれたこと。ここには、もちろんもうひとりの大事な登場人物もいる。クルド人を惨殺した兵士。彼は、老婆と少年に出会い、自分の過去を真摯に反省し、語る。そして、二人のためにあれこれと親切に行動する。クルド人を殺した男なんか近づくなと怒られても親切にする。彼を憎んでいた老婆も、彼を許すようになる。しかも、少年に「許し」の大切さを教えられて……。
 ひとはかわるということ。
 そして、そのとき、ひとは「ことば」を理解してかわるのではない。「意味」を理解してかわるのではない。「悲しみ」を実感して、変わるのだ。集団墓地で、老婆と女が、ことばを超えて悲しみを互いに実感したように、ひとはあらゆる感情を「実感」して、その瞬間、そこにいる人に対して「親切」になる。心を開いて、心でつながる。
 ここから、もうひとつのすばらしいシーンが生まれる。
 老婆は息子が見つからない(遺体すらない)という状況の中で、悲しみのあまり狂ってしまう。集団墓地の、息子ではない遺体(白骨)に向かって息子の名前を呼び、泣き暮れる。少年は「名札」を指し示し、「息子(少年の父)」ではないということを証明するが、通じない。ことばが通じない。そして、そのことばが通じないと知ったとき、少年は老婆と心を「ひとつ」にする。一体になる。だから、その後、少年は付き添ってくれている男に対して、「これからは老婆と二人で父を探す、もう手助けはいらない」と告げる。それまでは、少年は、その男を頼りにしていた。男を頼りにしていたとき、少年の心は老婆の心と完全に「ひとつ」ではなかった。でも、いまは「ひとつ」につながっている。
 だから、といってしまっていいのかどうか、わからないのだけれど。
 老婆は、最後、少年を残したまま、車の荷台で揺られながら死んでゆく。少年の心のなかに、サダム・フセインが引き起こした悲劇がしっかり引き継がれたことを知って、安心したかのように。(安心したかのように、というのは、まあ、語弊があるかもしれないけれど。)
 その強いつながり、その「ひとつ」の心に、この映画を見た私もつながる。
 この映画はフセインの暴力を声高に避難してはいない。「論理的」に告発してはいない。けれども、老婆と少年の感じた「実感」をていねいに描くことで、その「実感」のなかに、私たちを引き込む。
 この「実感」は、最初に書いたことに戻るのだけれど、「ことば」を超えて伝わる。女が老婆のことばを理解できないけれど、悲しみを実感したように。そして、老婆がやはり女のことばを理解していないけれど、悲しみを実感したように。そして、私は、この映画で語られた多くのことばをクルド語、アラブ語だけでなく、日本語(字幕)としてもほとんど覚えていないけれど、老婆の悲しい顔、少年の顔を忘れない。それは悲しみを忘れないということでもある。
 また、それを忘れないと同時に、たとえばいよいよ父に会えるかもしれないというとき、冷たい川の水で顔を洗う少年と老婆の、輝かしい美しさ。「許す」ことの大切さを訴える少年の純粋さを思い出す。人間は美しくなれるだ。そのことも忘れない。



 原題は「バビロンの陽光(太陽SUN)」ではなく「バビロンの息子(SON)」である。同じような「誤訳(名訳?)」をした映画が過去にもあったと思うけれど、今回のタイトルは「息子」の方がいいのでは、と思う。「息子」は引き継いだ感情を、さらに引き継いでゆくのである。「太陽」では、その継承への強い決意がわからない。
                              (KBCシネマ2)