谷川俊太郎「出口」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

谷川俊太郎「出口」(朝日新聞、2011年08月01日夕刊)

 詩は「意味」ではない。わかっていても「意味」を読んでしまう。そして「意味」に感動するとき、それは「予想していた意味」ではないからだ。「裏切り」がある。「裏切られる」ことによって感動する。あ、自分は何も知らなかった。でも、いま新しい何かを知った――そういう喜びが「意味の感動」かもしれない。
 谷川俊太郎の「出口」は、そういう作品である。

辞意文で作った迷路に迷って
出口を探してうろうろしている
上を見ればまだお天道様がいるのに
下を掘ればまだ水の湧くのに
前ばかり見て歩いていくから
どっちに向かっているのか
いつかそれさえ分からなくなって
心は迷子

いっそ出口はないと得心して
他でもないここに出口ならぬ
新しい入り口を作ってはどうか

 「出口」のことを考えながら読んでいたら、その「出口」が突然反対の「入り口」にかわる。「裏切られる」。でも、その瞬間、そうなんだ、と納得する。
 しかも「出口」が「入り口」にかわるだけではなく、「入り口」を作る。「入り口」を探すではなく、作る。
 これ、いいねえ。
 「作る」という自発性(?)というか、自分で何かを打開してゆくということが、その時「出口」になる。
 「入り口」こそが「出口」。
 この矛盾、この裏切り――そこに、詩がある。

 と、「意味」をとりあえず書き終えて・・・。
 もう一度、詩を読み返すと「意味」じゃないところに目がとまる。

下を掘ればまだ水の湧くのに

 これは何?
 道に迷ったとき、空を見上げることは、私にはある。空の光で東西南北がわかるから、それが「道しるべ」になる。でも、道に迷って「下を掘る」(地面を掘る)って何? そんな時間があったら、歩きまわるなあ。
 「下」というのは、もしかしたら「地面」ではない。
 きっと「心の下」(心の底)なのだ。
 「迷路」は地上の迷路ではなく、心のなかの迷路。自分でかってに迷い込んだ道。いま、その道を歩いているけれど、「心」は「地面」のように「平面」ではなく、「地層」のように「立体的」でもあるのだ。

心の迷子

 谷川は最初から「心」をテーマに書いているのだ。「心の迷子」は、自分で作った「心の迷路」をうろうろしている。
 それは「心」の迷路だからこそ、ここ、ときめて歩き出せばそれが「入り口」になる。もちろんそれがさらなる「迷路」(出口のない場所)になることもある。「入り口」は「出口」であると同時に「出口なし」。
 そうだとしても、さらにまた「新しい入り口」を作ればいい。

 あ、また「意味」に逆戻りしてしまった。変だなあ。
 谷川のことばは、強すぎる。どうしても「意味」へ引きずり込む力を持っている。そこから、どれだけ自由に「誤読」できるか。

 うーん。難しい。






ひとり暮らし (新潮文庫)
谷川 俊太郎
新潮社