セザンヌ「『レヴェヌマン』紙を読む画家の父」は不思議な絵である。素人の私からみるとデッサンが狂っている。セザンヌの父が背もたれ、ひじ掛けのある椅子に腰掛けて新聞を読んでいるのだが、ひじ掛けの描き出す「透視図」が変である。ひじ掛けが手前にむかって狭まって見える。椅子の前面よりも背後の方が広い。椅子の座面が台形になっている。しかも逆台形に。こんな椅子ある?
で、この狂った透視図をセザンヌは巧妙に隠している。セザンヌの父はまっすぐに腰をおろさず、画面を中心にしていうと向かって右側半分に上半身をずらして座っている。ひじ掛けと座面がつくりだす直角の隅っこを隠すようにして座っている。逆台形の前面の線は足で隠されて見えないようになっている。
でも、いくら隠したって、これは狂っているよなあ--と思うのだが、絵の前を歩きながら通りすぎたとき、変なことが起きた。
虎の絵で、どこから見ても(右から見ても、左から見ても、正面から見ても)、どうしても目が合ってしまうというものがある。(たしか小倉城にも、その一枚があった。)その虎の絵のように、動きながら右から見る、正面から見る、左から見ると、どういえばいいのだろう、まるで「ほんとう」の人間が座っているように見えるのである。誰かが椅子に座っている--その前を、その人のことを気にしながら歩いていく。ちらちらと視線をやりながら。そのとき見える「人間」のように、セザンヌの父が見えるのである。
通りすぎながら対象を見るとき、私たちの目は(私の目は?)、その人のまわりを含め、つまり全体を見ているのは見ているのだが、視線の焦点は体のある一部を見ている。たとえば顔を。あるいは、組んでいる足の組み方を。あるいは、上半身を傾けている、その傾き具合を。
自然に見えたのである。
正面からじーっと探るように見たときは、狂って見えるデッサンが、動きながら見ると気にならない。気にならないどころか、自然に見える。
モノの「日傘の夫人」について書いたとき、モネはモデルの手前にある空間を描いている、と書いたが、同じような言い方をすると、セザンヌは何を描いているのだろうか。絵の前を通りすぎながら見ると自然に見える絵だから、やはり手前の空間? 違うなあ。セザンヌの絵の前では、「空間」を感じない。モデルの奥、モデルから始まる空間しか感じない。モデルの奥の空間を感じるからこそ、その奥に向かっての透視図の狂いが気になるのだ。
では、何を見ている。
絵の前を通りすぎる。何度も、往復する。
あ、絵は動かないが、目は動いている。私が動き回っている。そうなのだ。セザンヌの目は動いているのである。
考えてみれば、これは自然なことだ。何かを見つめるとき、私たちは「一点」にとどまって何かを見るわけではない。いろいろな角度から見る。私の「肉体の目」は二つだが、その二つの位置は肉体とともに動く。視点はひとつではない。複数ある。複数の目が一枚の絵のなかで出会っているのである。複数の目が一枚の絵を作り上げているのである。
この複数の目をさらに過激にすると、たとえばピカソになる。ひとりの顔のなかに横から見た目、正面からみた目が同居することになる。セザンヌはそこまで過激なことをしていないが、その先駆けをやっている。それぞれの細部をがっしりと描きながら、複数の視点で画面を再構成している。
絵とは、セザンヌにとって、対象の「再現」ではなく、「再構築/再構成」なのだ。再構築・再構成のために、対象を四角や円や三角や、揺るぎない純粋な形にまでつきつめているのだ--そう思った。
(09月15日まで開催)
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