ワシントンナショナル・ギャラリー展(1) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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ワシントンナショナル・ギャラリー展(1)(国立新美術館、2011年07月20日)

 モネの「日傘の女性、モノ夫人と息子」が展示されているコーナーに入った瞬間、私は、ぐいっとその絵に引きつけられた。駆け寄りたい衝動に襲われた。
 この絵は美術の教科書にも載っている。中学の美術の教科書で見たのが最初である。私は、印象派の絵はもともと好きではないし、この絵も好きと思ったことは一度もない。気障、というか、光の眩しさを強調するために影に焦点をあてているのが「わざとらしい」感じがして嫌いだった。「逆光」の構図が「わざとらしい」と感じて大嫌いだった。
 その大嫌いな絵が、ぐいっと私をつかむのである。「ほんもの」の力といえばそれまでなのだが、何が美しいのだろう。ほかの絵と何が違うのだろう。

 絵というのは--私は素人だから、ごく単純に考えるのだが、たとえば人を描くとき、人が中心である。そして人が中心ということは、人が「前面」にでているということである。バック(背景)はあくまでバック(後面)である。つまり、人の後ろに空間があり、空間はそこに描かれている人の後ろにある。あるいは、人の横(となり)に広がっているものである。もちろん人の前にも空間はあるのだが、それは描く瞬間に消える。描かれている人からしか空間は始まらない。そう思っていた。
 その考えが(そういう絵の見方が)、この絵を見た瞬間、くつがえったのである。びっくりしてしまった。
 描かれているモネ夫人の背後にも空間がある。まぶしい雲と青い空が背後にある。モネの息子もモネ夫人の背後にいて、視線を絵の奥へと誘っている。それにもかかわらず、私は、モネ夫人の背後、あるいはモネ夫人の横に広がる空間を感じる前に、モネ夫人の手前にある空間を強く感じたのだ。モネとモネ夫人の間、モデルと画家との間にある「空間」をとても強く感じたのだ。
 逆光のため、モネ夫人の影が手前に伸びているから?
 そうなのかもしれないが、そうした「構図」を超えたものが、ここには描かれていると感じたのである。

 モネ夫人は絵のなかで振り向いている。そのとき影が動いている。影の占める「領域」そのものは動かないけれど、その「領域」のなかで影が動いている。その動きは、影ではなく、ほんとうは光なのだ。モネ夫人が振り返ったとき、水色の影が涼しく流れたのではなく、光が錯乱したように動いたのだ。光が乱反射したのだ。
 モネ夫人の背後の光は動かない。均一である。けれど、モネ夫人とモネの間では、その「均一」が崩れる。いままで動かずに存在していた光が動いたのだ。モネとモデルの間にある光、それが動いた。その変化をモネは描いているのである。

 対象の表面に存在する光、光の変化としての色ではなく、対象と画家との間にある「空間」そのものの変化をモネは描いている。この絵は、画面の奥に向かって立体的なのではない。画面の手前に向かって立体的なのである。そして、その立体感は「透視図」ではとらえられない立体感である。まるごと、「空間」そのものがそこに存在する。その「空間」のなかに入って、「空間」そのものを見つめるための絵なのだ。

 私は、この絵によって、私の絵画観(大げさすぎるかもしれないけれど)が変わってしまった。絵のなかに描かれた「空間」ではなく、その手前にある「空間」というものに気がついた。
 そして大好きな一枚になってしまった。
 「ほんもの」はすごい。「ほんもの」は見なくてはならない、とあらためて思った。
                             (09月15日まで開催)




モネ (ニューベーシック) (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)
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