レンブラント光の探求/闇の誘惑 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。


レンブラント光の探求/闇の誘惑(名古屋市美術館、2011年07月20日)

 レンブラントの版画(エッチングなど)を意識的に見たことはなかった。名古屋市美術館の催しは油絵よりも版画が多かった。版画も油絵同様、夜の闇とろうそくの光を描いたものが多いのだが、「ヤン・シックス」は昼の光を描いていておもしろい。
 男が窓辺に立って、窓を背にして、雑誌を読んでいる。逆光である。逆光だから、顔は暗くなる--はずなのだが、雑誌の照り返しが顔にあたり、完全な逆光にならずにやわらかな光をただよわせている。とても微妙である。その微妙な陰影と、無傷(?)の窓の外の光の対比がとてもおもしろい。
 フェルメールの光も繊細だが(フェルメールを見た直後なので、どうしても思い出してしまう)、この「ヤン・シックス」の光の繊細さには圧倒される。繊細な豊かさ--というような、ちょっと矛盾したことばがかってに動きだしてしまう。
 フェルメールは昼の光、レンブラントは夜のろうそくの光と私はかってに思い込んでいたが、レンブラントにも、こんなに美しい昼の光があるのだ、と驚いてしまった。
 油絵に、どんな昼の絵があっただろうか--そう思いながら会場をめぐっていると、「アトリエの画家」に出会う。全体のトーンの明るさが「昼」をあらわしているが、「昼」を決定づけるのはカンバスの角の真っ白な光である。カンバスの板の断面。それがまるで太陽の光を反射する鏡のように輝いている。真っ白な、すべてを拒絶する力が、そこにある。
 朝日新聞で大西若人がこの絵について書いていたことがある。その大西の文章に対する感想を、このブログで書いたことがある。何を書いたか忘れてしまったが、あ、大西はこの真っ白な拒絶する光を見たのだ--とそのとき思った。
 拒絶する光--と私は書いたのだが、なぜ、拒絶するということばが突然浮かんだのだろう。
 記憶のなかで、もう一度絵を見つめなおす。そうすると、その白は、太陽の光の反射ではなく、それ自体で発光しているように見えてくる。
 この強い光に対抗できるのは、セザンヌの塗り残しの空白だけである、とも思った。
 色になる前の、純粋な光、純粋な白。純粋すぎるので、それに追いつけない私が、拒絶されていると感じてしまうのかもしれない。
 そうすると……私がなじんでいるレンブラントの夜の光とは何だろう。昼の太陽の光が色になる前の純粋な透明な白だとすると、夜の光は色になってしまったものの「何か」である。
 色が、いくつもの色と出会い、その差異のなかから見つけ出す「何か」。「色」自身のなかにある燃え上がるものかもしれない。
 それが「ろうそく」の光に向かって動いているのかもしれない。ろうそくが照らしだしているのではなく、いくつもの色がまじりながら--色がまじると黒になる--まじることで生まれた黒から、もう一度生まれようとする「色の力」かもしれない。

 あ、私は何を書いているのだろう。

 実際に絵を目の前にしてことばを動かしているのではないので、どうも「自制」がきかない。ことばが暴走し、絵から、そしてレンブラントの色から離れて行ってしまう。
 絵の感想というのは、絵を見ながら、その場でことばを動かさないことには、結局のところ、奇妙なものになってしまうのかもしれない。

 目をつぶって、もう一度、あの「白」を思い出してみる。画面のほぼ中央、斜め右上から左下へ、まっすぐに伸びた輝き。--あの「白」に拮抗する夜の「白」をレンブラントは描いているだろうか。「夜警」のなかに、あの「白」に拮抗する輝きはあるだろうか。それを確かめるためにアムステルダムへ行きたい--と、急に思ってしまう。



 版画に戻る。
 レンブラントは驚いたことに和紙にも印刷している。和紙で版画をすると、インクが微妙ににじむ。全体がやわらかくなる。そうして、そのやわらかさのなかに「色」がひろがる。洋紙に印刷したときは版画の線は線なのに、和紙では線が色になる。--これはもちろん錯覚なのだが、とてもおもしろい。
 もうひとつ。
 版画というのは「面」ではなく「線」の交錯である。交錯する線が増えると、その部分が「黒」になる。これは常識的すぎて、わざわざ書くべきことではないのかもしれないが、それをわざわざ書いたのは……。レンブラントは、「面」を「色の線」の交錯と見ていたのかもしれないと、ふと、思ったからである。
 で、そうであるなら、というのは飛躍のしすぎかもしれないけれど。
 「アトリエの画家」のカンバスの白、その強い直線は、やはり「線」なのだ。どの方向の「線」とも交わることを拒絶した力なのだ。光の力なのだ。
 版画--交錯する線によって作り出される「闇」の絵のなかに「アトリエの画家」を置いて見ると、そんなことを思ってしまう。
 この絵を、版画から切り離して、たとえば「夜警」や「自画像」と並べてみたとき、また、違った感想を持つだろうと思う。
 絵はきっと、「美術館」のなか、展覧会という会場で生きている。いつも違った表情に生まれ変わる。だから何度見た絵でも、その絵を見にゆかなければならないのだとも思った。
                            (09月04日まで開催)


もっと知りたいレンブラント―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
幸福 輝
東京美術