アントン・コービン監督「ラスト・ターゲット」(★★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 アントン・コービン 出演 ジョージ・クルーニー、ヴィオランテ・プラシド、テクラ・リューテン、パオロ・ボナチェリ

 とても美しい映画である。映像が美しい。動く映像ではなく、静止した映像が美しい。映像は静止しているけれど、それは「過去」という「重い時間」を内にもっているから静止しているだけである。そして、その「重い時間」は、実は、動いている。人間以上に動いている--というのが、この映画である。(アクションは最小限におさえられている。まるでスチール写真をつなぎあわせたような静止した映画である。)

 ジョージ・クルーニーは殺し屋であり、同時に殺しのための銃をつくる職人でもある。この「職人」の部分が、この映画の細部に生かされている。材料をそろえる。それをていねいに加工し、組み立てる。銃弾までも手作りである。手に触れて、手になじんで、ものは美しくなってゆく。アクションは、このていねいさのなかに集約されている。
 古い街並みの美しさ、調度の美しさは、人間の手になじんで美しくなるものの代表だが、荒れた野原の毅然とした美しさにもまた人間の手が触れている。しっかりとつくられた道路。その「人工」が荒野を引き裂くとき、それに拮抗するように「神」の手が自然に触れて、全体をととのえなおす--そういう印象がわきおこってくる。(神父が重要な役割を果たしているのも、「神の手」の仕事を暗示している。)
 手が触れることで美しくなる--それは人間も同じである。
 ジョージ・クルーニーは殺し屋なのだが、古いイタリアの街で出会った娼婦に「触れて」、何かが少しずつかわっていく。娼婦もまたジョージ・クルーニーに「触れる」ことで変わっていく。触れ合い、なじむことで、美しさを手に入れる。--それは、ジョージ・クルーニーのような殺し屋が手に入れてはいけないものなのだが、手に入れてしまうのだ。
 娼婦とのセックスのあと、ジョージ・クルーニーは「快楽は、おれが求めるものであって、おまえに与えるものではない」というのだが、その「一線」を越えてしまう。つまり、快楽を娼婦に与え、娼婦がいっそう美しくなり、それがジョージ・クルーニーに跳ね返ってくる。偶然、手に入れてしまう。夜の快楽だけではない、昼の、セックスをしていないときの女の輝く美しさ。
 ジョージ・クルーニーの手が触れて、「いま」という時間が動きはじめるのだが、その「いま」の背後で「過去」の方がはるかにはげしく動く。つまり、「過去」が組み換えられようとする。言い換えると、ここからジョージ・クルーニーの人生(?)が狂っていく。ジョージ・クルーニーは「殺し屋稼業」から足を洗いたいと思うようになる。この変化を、この映画は、アクションではなく、沈殿する「時間」としてスクリーンに定着させていく。
 これが、とてもとてもとても、美しいのである。
 イタリアの古い街をジョージ・クルーニーの逃避行(潜伏場所)にしたことが、この映画の成功の一つかもしれないが、その街の古い石畳、入り組んだ路地--そこに沈殿している「時間」と、ジョージ・クルーニーの「時間」が重なり、深みを増してゆく。そこに生きている人々の「時間」がジョージ・クルーニーを静かに照らしだすのである。
 伏流の「時間」がある。
 ジョージ・クルーニーがたまたま出会った、その街の神父の「時間」が重なる。彼には隠し子がいる。どうすることもできない「歴史」がある。そういう「語れない秘密・秘密としての歴史」があって、人間は、美しくなるのだ。「時間・歴史」は美しさを支える「土台」なのである。(ジョージ・クルーニーが出会う娼婦も、その美しさの奥に、「娼婦」という「時間」がある)。

 不満をひとつ。
 映画そのものに対してではない。日本語のタイトルについてである。
 神父はジョージ・クルーニーの「暗い部分」(語ることのできない、公にできない「時間」)を感じるからこそ、彼に接近し、何事かを助言しようとする。その過程で、とてもいいことばのやりとりがある。
 ジョージ・クルーニーはカメラマンであると嘘をつく。そしてイタリアの「歴史」には興味がないという。神父は、「歴史」に関心がないのはアメリカ人だからだと断言する。「歴史」に関心をもたない生き方は感心しない。イタリアの歴史を知ってほしいと言うのである。ここでは直接的には「歴史」はイタリアの「歴史」であるけれど、実際に神父が言いたいのは「人間そのものの歴史・時間」ということである。(殺し屋は人間の「歴史」を突然奪うもの--という批判が、ここには含まれているかもしれない。)
 そして、この「会話」から映画の原題「The American」が生まれているのだが、日本語のタイトルの「ラスト・ターゲット」は、これを無視していて、ちょっとひどい。「アメリカ人」と「イタリア人」、「アメリカ」と「ヨーロッパ」、「薄っぺらないま」と「厚みのある歴史」という対比が、日本語のタイトルからは消えてしまった。
 映画なのだから、タイトルやことばというのはどうでもいいといえばどうでもいいのかもしれないが、この映画のように、アクションで見せるのではなく、静止で見せる映画では、ストーリーの展開とは無関係な「静止した台詞」に重要な「意味」があるのだから、きちんと掬い取ってもらいたい。




 私はこの映画をt-joy 博多の3番シアターで見た。3月にオープンしたシネコンだが、音が大きすぎてうんざりした。ユナイテッドシネマ(キャナルシティ)も音が大きすぎて見にゆく気がしない。どこのシネコンも同じなのだろうか。
 

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