アレハンドロ・イニャリトゥ監督「BIUTIFULビューティフル」(★★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演 ハビエル・バルデム、マリセル・アルバレス

 どこから書きはじめればいいのだろうか。
 タイトルは、主人公の娘が「ビューティフル」はどうつづるかと父親に聞くところから取っている。父(ハビエル・バルデム)は、「発音どおり、BIUTIFUL」と言うのだが--これはもちろん間違っている。そして、この「間違い」のなかに、この映画の哀しみが象徴的に表現されている。ハビエル・バルデムは「ビューティフル」のつづりを知らないのと同じように、「ビューティフル」が何であるかを知らないのだ。いや、「ビューティフル」が何かを知らない人間などいない。もちろん知っている。知っているけれど、それは誰にでも「共有」される形にはなっていない。いわば、「間違ったビューティフル」にしか触れることができずにもがいている。
 「ビューティフル」にかぎらず、ハビエル・バルデムの行動は、どこかが必ず「間違っている」。たとえば、彼の収入は、不法移民が偽ブランド商品を売る「露店」の場所の確保や、労働者の斡旋をして給料をピンはねすることである。「まっとう」な人間なら、もっと違った仕事をするはずだが、それができない。ハビエル・バルデムはそれが「正しい」とはもちろん思っていないが、それしかできないのである。二人の子どもを養わなければならないからである。
 この映画は、その「間違い」をハビエル・バルデムのなかだけにとどめずに、ハビエル・バルデムとつながる人々の暮らしにまでていねいに拡大して行く。何度も出てくる「食べる」シーンが、特に強烈である。「食べる」ことは人間が生きる上で欠くことができないものだけれど、この映画で出てくる「食べ物」は悲惨である。「おいしい」感じがしない。唯一、とけたアイスクリームを手で掬って食べるシーンが「おいしい」感じがするが、それは食べ物が「おいしい」のではなく、「食べる」ことの喜びが輝いているからそう見えるだけなのである。人間の「生きる力」が「美しくないもの(おいしくないもの)」を突き破ってあらわれる--その瞬間に、貧しい、汚い、苦しいといった負のイメージが一瞬消えるだけなのである。しかし、そういう「生きる力」を骨太に描いた映画化というと、そうでもないのだ。主人公は死んで行く。なけなしの金は盗まれる。人間の「垢」のようなものが、どこまでもどこまでも克明に描かれる。そういうものをしっかり定着させるために「生きる力」が必要だから、それを描いているのである。
 そして、その一方、まったく違うシーンが、どうしようもない生活と同じ映像の質で表現される。たとえば何台ものテレビモニターに映し出される鯨の死(海岸に打ち上げられた鯨とその体に押し寄せる波の繰り返し)、工場の煙突からもくもくと噴き出す煙、ハビエル・バルデムがふと見上げた空に群れ飛ぶ小鳥の塊。--それが、なぜ美しく見えるのか、よくわからないが、世界はたしかにそんなふうにして、あらゆるものが同居しているのだろう。わたしたちの知らない「生きる力」のようなものが、世界のあらゆる部分に存在しているのである。
 その見えるかぎりの「部分」をアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトはハビエル・バルデムと同時に描いている。ハビエル・バルデムは、世界のあらゆる部分と向き合っている。向き合い方(といっていいのだろうか)に緩みがないために、たとえば血尿、便器に飛び散った血、さらには前立腺ガンのための合併症のようにして漏れてしまう尿(ズボンをぬらしてしまう汚れ、紙おむつにさえ、目が引きつけられてしまう。あらゆるシーンから目がそらせなくなる。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトの演出力もすばらしいが、ハビエル・バルデムの演技もすばらしい。



 字幕で気がついたこと。
 ハビエル・バルデムが医者に余命を訊ねる。医者が「2か月(ドス・メセス)」と答える。これを聞いてハビエル・バルデムが「メセス(月々、複数)」と口にして茫然とする。「年」ではなく「月」なのか、である。これを字幕では「2か月」と訳していた。好みの問題もあるだろうが、これではハビエル・バルデムが、そんなに短いのかと茫然とした感じが伝わりにくい。「2か月」はたしかに長くはない。短い。けれど、それがハビエル・バルデムの思いとどれくらいかけ離れているかが「2か月」ではわかりにくい。「年じゃないのか……」くらいにしてもらいたい。



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