青木津奈江『星降る岸辺の叙景』 | 詩はどこにあるか

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青木津奈江『星降る岸辺の叙景』(ふらんす堂、2011年05月20日発行)

 青木津奈江『星降る岸辺の叙景』は静かな、そして美しいことばで書かれている。夾雑物、ノイズがないだけに、少し詩としては弱い印象が残る。つまり、あまり「現代詩」っぽくはない。けれども、とてもしっかりしている。強いものがある。
 「挽歌」という作品。

菜島の朱の鳥居
並んだ舳先に
陽は揺れている

海と山とを行き来する
鳶の鳴く声
か細く響く

三ヶ下海岸
三ヶ岡
凌霄蔓(のうぜんかずら)は風に揺れ
蓬春記念館
音羽楼
密やかなこの路地を

わたしは一人で歩いていける

玉蔵院から
森山神社へ
あなたが纏った経帷子の
脳裏に刻んだ
デスマスク

もう恐くない

黒松林をくぐりぬけ
海に抱かれた公園に
浜萱草(はまかんぞう)が咲いている

 いくつもの固有名詞が出てくる。書き出しの「菜島」をはじめ、そこに出てくる固有名詞(地名)を私はまったく知らない。知らないけれど、それがとても美しく響いてくる。きりつめられて、むだがない。いっさいの修飾語をもたずに、とぎすまされて存在している。
 「わたしは一人で歩いていける」という行があるが、「わたし」が「一人」であるように、その固有名詞は「ひとつ」であることで、青木と向き合っている。あらゆるものを捨て去って、「一人」と「ひとつ」が向き合う。そのとき「ひとつ」はかけがえのないものであり、「ひとつ」であることによって「すべて」なのだ。
 こうした関係の中で、固有名詞ではないもの、普通の名詞(一般名詞)も、かけがえのない「ひとつ」になる。「鳥居」も「舳先」も「鳶」も。そして何よりも、「凌霄蔓」「浜萱草」と漢字で美しく切り詰めて書かれた植物が、まるで結晶のように「こころ」をひとつにする。そのとき「世界」が「ひとつ」になる。ほんとうに結晶する。その透明さが、青木の詩である。
 「夕暮れをさがして」も美しい詩である。

芦名を過ぎたら
とわこさんが乗ってきた
終点
佐島で降りたのは
ふたりだけ

海鳥が鳴いている

水平線
太陽はバーミリオン
広い肩
黒いシルエットを翻して

死んでなんかいない いない いない いない
怒って いるの いるの いるの

太陽はもうすれすれ

海猫が鳴いている
とわこさんの声がする

ああ
夕暮れは
太陽を掴まえにやってきた

海の奥から
クゥー クゥー クゥー

鳴きながら

 もう会えないとわこさん。会えなくなったことに怒っている。
 1連目の「ふたりだけ」の「ふたり」は、「挽歌」で読んできた「ひとつ」である。「ひとつ」(一人)の「わたし」が、「わたし」と「とわこさん」にわかれて向き合い、それからまた「ひとり」に戻る。
 太陽と海が「ひとつ」になる夕暮れ。
 青木は「一人」と「ふたり」の、「ひとつ」の結晶となる。





星降る岸辺の叙景―青木津奈江詩集
青木 津奈江
ふらんす堂



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