青木津奈江『星降る岸辺の叙景』は静かな、そして美しいことばで書かれている。夾雑物、ノイズがないだけに、少し詩としては弱い印象が残る。つまり、あまり「現代詩」っぽくはない。けれども、とてもしっかりしている。強いものがある。
「挽歌」という作品。
菜島の朱の鳥居
並んだ舳先に
陽は揺れている
海と山とを行き来する
鳶の鳴く声
か細く響く
三ヶ下海岸
三ヶ岡
凌霄蔓(のうぜんかずら)は風に揺れ
蓬春記念館
音羽楼
密やかなこの路地を
わたしは一人で歩いていける
玉蔵院から
森山神社へ
あなたが纏った経帷子の
脳裏に刻んだ
デスマスク
もう恐くない
黒松林をくぐりぬけ
海に抱かれた公園に
浜萱草(はまかんぞう)が咲いている
いくつもの固有名詞が出てくる。書き出しの「菜島」をはじめ、そこに出てくる固有名詞(地名)を私はまったく知らない。知らないけれど、それがとても美しく響いてくる。きりつめられて、むだがない。いっさいの修飾語をもたずに、とぎすまされて存在している。
「わたしは一人で歩いていける」という行があるが、「わたし」が「一人」であるように、その固有名詞は「ひとつ」であることで、青木と向き合っている。あらゆるものを捨て去って、「一人」と「ひとつ」が向き合う。そのとき「ひとつ」はかけがえのないものであり、「ひとつ」であることによって「すべて」なのだ。
こうした関係の中で、固有名詞ではないもの、普通の名詞(一般名詞)も、かけがえのない「ひとつ」になる。「鳥居」も「舳先」も「鳶」も。そして何よりも、「凌霄蔓」「浜萱草」と漢字で美しく切り詰めて書かれた植物が、まるで結晶のように「こころ」をひとつにする。そのとき「世界」が「ひとつ」になる。ほんとうに結晶する。その透明さが、青木の詩である。
「夕暮れをさがして」も美しい詩である。
芦名を過ぎたら
とわこさんが乗ってきた
終点
佐島で降りたのは
ふたりだけ
海鳥が鳴いている
水平線
太陽はバーミリオン
広い肩
黒いシルエットを翻して
死んでなんかいない いない いない いない
怒って いるの いるの いるの
太陽はもうすれすれ
海猫が鳴いている
とわこさんの声がする
ああ
夕暮れは
太陽を掴まえにやってきた
海の奥から
クゥー クゥー クゥー
と
鳴きながら
もう会えないとわこさん。会えなくなったことに怒っている。
1連目の「ふたりだけ」の「ふたり」は、「挽歌」で読んできた「ひとつ」である。「ひとつ」(一人)の「わたし」が、「わたし」と「とわこさん」にわかれて向き合い、それからまた「ひとり」に戻る。
太陽と海が「ひとつ」になる夕暮れ。
青木は「一人」と「ふたり」の、「ひとつ」の結晶となる。
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