岩木誠一郎「飛来するもの」 | 詩はどこにあるか

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岩木誠一郎「飛来するもの」(ぶーわー」26、2011年05月10日発行)

 岩木誠一郎「飛来するもの」は、とてもすっきりした、静かな詩である。ここ何日か「散文詩」の、非散文的(?)なことばを読んできたので、特にそう感じるのかもしれない。漢字とひらがなのつかいわけにも気配りがある。ことばに対するこだわりが感じられる詩である。

ほそく開いたカーテンのすきまから
月のひかりに濡れた国道がひとすじ
北に向かうのを見ている
伝えることも
分かち合うこともできないものが
つめたさとして降りつもる部屋で

遠ざかるバスの座席には
わたしによく似た影がうずくまり
運ばれてゆくことの
痛みに耳をすませているだろう
ほんの少しの荷物を
胸のあたりに抱えたまま

この先には小さなみずうみがあり
冬になると白鳥が飛来するという
その名を口にしようとすると
くもりはじめたガラスのむこうを
低いエンジン音とともに
もう一台のバスが走り去る

 ひとり部屋にいて、国道を走る車(バス)を見ている。見ながら、いろいろ考えている。その孤独と、悲しみ。そういうものを書いていることが、一読してすぐにわかる。
 しかし、わからないことばがある。
 「伝えることも/分かち合うこともできないものが/つめたさとして降りつもる」と1連目にあるが、これはいったい何のこと? 「降り積もる」は季節が冬で、雪が降り積もるように、くらいの意味なのだろうけれど、「伝えることも/分かち合うこともできないもの」は、あまりに抽象的すぎて、わからない。わからない、と書いているけれど、なんとなく、ひとに伝えたいのに伝わらない悲しみ、寂しさ、孤独……のようなものであることは、想像できる。「冷たい」と悲しみ、寂しさ、孤独がどこかで通い合うからだ。
 そして、岩木がことばを動かすとき、この「つめたさ」ということばのつかい方にあらわれているように、わからないことをなんとか別のことばで補足して「感じ」を浮かび上がらせようとしていることがわかる。
 「伝えることも/分かち合うこともできないもの」ということばだけでは、それが何を指しているか読者にわからなということを、岩木は知っているのである。だから、補足しているのである。
 この補足というか、言い直しは、2連目でもおこなわれる。
 「伝えることも/分かち合うこともできないもの」は「運ばれてゆくことの/痛み」である。そしてそれは「耳をすませて」感じ取るものである。「痛み」というのは触覚に属するものだと思うけれど、岩木はそれを「聴覚(耳)」で聞き取るものと書いている。「耳をすませる」とき、ひとは体を静かに、動かさずに、じっとしている。その「動かない」肉体のなかで感じる「痛み」--それを「耳をすませて」と書いたのだとも受け取れる。何か、感覚が「肉体」のなかで、融合して、ひとつの感覚では伝えられないものを現わそうとしている。
 「ほんの少しの荷物を/胸のあたりに抱えたまま」も同じ補足である。静かに、体を動かさずにいる--その姿勢は、胸のところに小さな荷物を抱えた状態のようである、というのだ。ここに書かれている「ほんの少しの荷物」は「現実」であり、また「比喩」なのだ。「荷物」を抱えていなくても、「ほんの少しの荷物を」抱えるようにしている、ということだ。
 この「ほんの少しの荷物」のように、岩木のことばは「現実」と「比喩」を行き来している。「現実」であると同時に、彼の「心象」なのである。「胸のあたり」の「胸」も肉体の「位置」であると同時に「心象」が動くところ、「こころ」なのである。
 「心象」というのは伝えることができるといえばできるが、それがほんとうに伝わったか、あるいは分かち合えたかは、わからないものである。
 「伝えることも/分かち合うこともできないもの」は3連目でも補足される。
 「この先には小さなみずうみがあり/冬になると白鳥が飛来するという」の「この先」。「ここ」ではない「場所」。「この先」というのは2連目のことばを借りると「ほんの少し先」になる。岩木のことばは、先に書いたことばを引き継ぎ、補足するようにして少しずつ深まり、動いているのだ。「伝えることも/分かち合うこともできないもの」というのは、「ほんの少し」だけ、伝えたい相手(あなた、と仮に呼んでおく)が感じ取っているものとは違うのだ。岩木には違って見えるのだ。その「ほんの少し」の違いが、しかし、とても大切なのだ。それが積み重なって、何か大きな違いになってしまうのだから。
 「ほんの少し先」の湖には「白鳥が飛来するという」。この「白鳥」、「白鳥の飛来」れもまた「伝えることも/分かち合うこともできないもの=伝えたいもの」である。「いま/ここ」にはない。「いま/ここ」であなたが感じているもの(見ているもの)ではない。それは、「いま/ここ」ではなく、「ほんの少し先」にあるのだ。
 それを岩木は伝えたい。けれど「その名」(具体的なことがら)を伝えようとすると、それがうまくことばにならず、そして、あなたは去ってしまった……。
 ほんとうに伝えたいこと「その名」が、白鳥がやっているという「冬」のつめたさ、雪のつめたさで、岩木の部屋をつつんでいる。

 --と書いてきて気がつくのだが、岩木のことばは「散文」の「文法」で書かれている。あることがらを書く。それを踏まえながら、足りない部分を補い、言いなおす。それを繰り返すことで、言いたいことを少しずつ明確にしてゆく。ことばが重なるたびに、それが深まっていく。
 「散文の文法」を踏まえながら、岩木は「ほんの少し」とか「この先」という「小さなことば(おおげさではない、という意味、ひとがごくふつうにつかうという意味)」で読者を立ち止まらせる。「小さなことば」のなかに「言いたいこと」をこめる。感覚も、切り離された感覚ではなく「つめたさ」が「痛み」にかわり、触覚が聴覚にかわるように、どこかでつながっている--なにもかもをつなぎとめる「肉体」を丁寧にくぐらせることで動かしている。
 「抒情詩」こそ、「散文」の感覚が必要な詩形式なのかもしれない。




流れる雲の速さで
岩木 誠一郎
思潮社



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