高塚謙太郎「光沢のある背表紙のみちみち」、望月遊馬「ねむりのまえの、ひと眠り」 | 詩はどこにあるか

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高塚謙太郎「光沢のある背表紙のみちみち」、望月遊馬「ねむりのまえの、ひと眠り」(「サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち」3、2011年06月10日発行)

 高塚謙太郎「光沢のある背表紙のみちみち」は、「散文」を粘着力として利用している。「文」には「構造」というものがある。それはほとんどことばの肉体と同じ意味になるが、その構造の力、肉体の力で、いくつかのことばを結びつける。粘着力と書いたが、結合力といった方がいいのかもしれない。
 「無限と倫理」の書き出し。

折にふれてはささやきあう間柄にしても、伸びつづける月夜の裏道ほどの価値がそのロープからいくらほど垂れさがっていたのか、いつわりのない野の道、ほんの束の間の織物、手編みの喉仏、いくらでもなしくずしに耳元に結びつける。ひとつの柑橘をした支えする足指に眼差しのあとがカラフルに鳴りだすにしても、輪唱の月影から降りたった江里巣をめぐる物語ほどのループに浮かび上がる私か、ほどなくかそけくにごった茶碗にそそがれるわたり、絶望はそのぶんだけ熾烈で悦楽気味に変化をみせるだろうに。

 ことばが「もの」ではなく、次々に「比喩」になっていく。「比喩」というのは「いま/ここ」にないものを借りて「いま/ここ」を語ること。ことばだけができる不思議な運動であり、「比喩」があるとき、そこに「意味」がある。その「意味」がわかろうがわかるまいが、あまり関係がない。「伸びつづける月夜の裏道」「ロープ」--このふたつの、どっちが「比喩」なのか。どっちでもいい。「伸びつづける」のか、それとも「垂れさがっていた」のか。それも、どっちでもいい。--どっちでもいい、と書いてしまうと高塚には少し申し訳ない気もしないでもないのだが、それは、私には区別がつかない。区別がつかないものは、わからないまま、そのまま受け入れる。そのとき、何かわからないけれど「意味」が生まれてくる。「月夜の裏道」だけでは存在しなかった「意味」、「ロープ」だけでは存在しなかった「意味」。それは細くて長い。何かをつなぐ。(道はある点と別の点を結ぶ時に道になる。)その「結ぶ」ということのなかに、「手編みの喉仏」という変なものまでつながってくる。これも何かの「比喩」だなあ。何かの「象徴」だなあ。でも、何かわからない。わからないけれど「手編みの喉仏」というのは不思議で、見てみたいなあというような気持ちになる。何か変なところに迷い込んでしまったなあ、と思う。
 この感覚は、それにつづく文を読むとさらに強くなる。そこに書いてあることもはっきりとはわからない。いや、実際にはぼんやりとすらわからないのだが。「喉仏」「耳元」「鳴る」「輪唱」ということばが、そこに「声」を浮かび上がらせる。「声」ということばをつかわずに、「声」を浮かび上がらせる。
 そういう、ことば自身の力を高塚はしっかりと育てている。高塚の肉体にしている。これがおもしろい。
 そこには、まだ「意味」にならない「意味」がある。それは「声」と私が仮に呼んだものにいくらか似ている。
 榎本のことばが、前に書いたことばを否定して「無意味」へ暴走するのに対して、高塚は前に書いたことばを利用しながら、まだ「いま/ここ」に存在していないことばを「過去」から引き寄せるようにして浮かび上がらさせる。
 そして、こういう運動のために、ちょっと不思議な工夫もする。「倫理と無限」の書き出し。

くるまるままに敷物のふちを笑う、耳のかわいい犬と歩いた。野に見えるくるぶしを明るくみせる彼女たちの笑う、

 「くるまる」「見える」「くるぶし」「明るく」「みせる」--このことばのなかに頻繁にあらわれる「る」の響き。丸い感じ。「意味」はわからないけれど、そこにことばがあり、そのことばが何か「同じ何か」を呼吸している感じがつたわってくる。
 その、ことばが呼吸している「同じ何か」--それが、「いま/ここ」にないことばなのだ。「意味」なのだ。高塚は、そういうものを不思議な形で呼び寄せ、結ぼうとする。結ぶといっても、きちんとした結び目があるわけではなく、そばに引き寄せ、そこで遊ばせている感じだ。
 こいう「意味」以前の感覚は楽しい。



 望月遊馬「ねむりのまえの、ひと眠り」も不思議な文体である。

今日の雪はとても眩しかった。手のひらのむこうで、ハンドバッグが輝いていた。それよりも眩しかった。それで午後のある立方体には雨の降る仕組みがあり、そこでは、スコップを片手に土を掘っている、埋めている、紙の白いところは、埋められたいくつかのシーンが蘇って、ドレッシングのなかのオリーブのような歪んだ顔で、駅にむかって歩いていて、ハンドバッグを片手に桃色の尻をまわして土のなかに入っていった、その瞬間のことが沈んでいく瞼の奥では知られていた。

 なんのこと? 何かよくわからない。そして、そのわからなさは、高塚の時とは違って、互いが結びつかないところに原因(?)がある。
 不思議なのは、そういうことはわからないのに、雪も手のひらもハンドバッグもまぶしいも、ことばとしてわかるということだ。意味がわからないなら、ことばもわからなければいいのに、ことばそのものはわかる。どうも人間とことばの関係、意味の関係は複雑であいまいだ。
 このわからないことに対して(望月はわかっている、と反論するかもしれないが)、「それで」と望月は「理由」を書く。
 でも、理由になっていない。
 そこでは「それで」を受ける「述語」がない。そのために「意味」が形成されない。とというより、「それで」ということばがあるこめに、「意味」が解体するという感じが強くなる。「意味」がないのに、「それで」だけがある。しかも解体するのに「仕組み」という論理的(?)なことばをつかっている。
 最後の「瞼の奥では知られていた」ということばを手がかりにすれば、ここに書かれているのはタイトルが暗示しているように「眠りの前の」一瞬の、夢のようなものかもしれない。現実が解体し、新しく関係をつくる前の、ばらばらの状態。ふつう、こういうばらばらは「矛盾」「混沌」というものに傾いていくのだが、望月の場合は、矛盾でも混沌でもない。なぜだろう。高塚のことばと違って、ことばとことばが結びつかない、つなげるものがない。そのために、「距離」があるのだ。ことばとことばの間に。
 高塚のことばが結びつき(距離の密着感)を味わう詩他とすれば、望月の詩はことばの「距離」の美しさを味わうしかもしれない--と書いて、私は、ふと江代充の詩を思い出した。存在(世界)の解体と、解体された「もの」の距離の感じがどこかで通い合っている感じがする。
 具体例もあげずに、こんなことを書くのはいけないのかもしれないが……。



さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社



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