斎藤恵子「往来」、河邉由紀恵「ガーデン」 | 詩はどこにあるか

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斎藤恵子「往来」、河邉由紀恵「ガーデン」(「どぅるかまら」10、2011年06月10日発行)

 斎藤恵子「往来」は、ある「声」を書いている。

路のわきに枯れた百合
褐色になったつぼみがうながれていた
わたしは黒ずむ茎を手折った
 あらあら手がよごれるよ
通りがかりのひとの声
色彩が消えてゆく

細い茎は腕の中でぬるみ
ぶちの赤い花弁をひろげた
 美しいでしょ
見捨てられたものの声
腕の中でいっそう大きくひらいた
ほばほばと光る芯のしべ
花を抱いた姿をショーウインドウに映す
じぶんのかおばかりが見え
やがて
ぼやけて花弁ばかりになり
百合はショーウインドウの飾花になっていた

 「あらあら手がよごれるよ」。これは「いま/ここ」で誰かが斎藤にかけたことばなのか。それとも斎藤が百合を手折ろうとした時「かつて/どこか」であったことを思い出したのか。よくわからない。また、実際に百合を斎藤が手折ろうとしたのかどうかも、よくわからない。
 次の連で「百合はショーウインドウの飾花になっていた」とあるが、ショーウインドウの百合を見て、昔のこと思い出したのかもしれない。子どもの時、枯れた百合を手折ろうとしたら通りかかった誰かが「あらあら手がよごれるよ」と注意(?)してくれたことを思い出したのかもしれない。
 ことばのなかで、時間が入り乱れる。「色彩が消えていく」というのは、思い出の中である部分が明るくなったりぼんやりしている描写である、と考えると、その時間の入り乱れが濃くなる。
 「美しいでしょ」は、もっといろいろな時間のなかで聞こえる。腕のなかに抱える前に斎藤がすでに聞いた声かもしれない。路端で先ながら、枯れている百合、そのうなだれたつぼみが、すばやくささやいた声かもしれない。「枯れて見えるけれど、ほんとうはそうじゃないの。美しいのよ。よく見て。ほら、美しいでしょ」という声を聞いて、斎藤は思わず百合を引き寄せ手折ったのかもしれない。そんな、あってはならない百合と少女の会話が聞こえたから、誰かが「あらあら手がよごれるよ」と言ったのかもしれない。よごれるのは「手」だけではないのだ。「手」がよごれれば、「肉体」のなかにあるものもよごれるのだ。
 そして、実際に「肉体」のなかがよごれたからこそ--百合の毒(?)に染まったからこそ、「美しいでしょ」が鮮明に聞こえる。
 百合から手(肉体)、肉体からその内部へと動く何か。それは「細い茎は腕の中でぬるみ」の「ぬるみ」ということばが、しっかりと把握している。「肉体」の温度と百合の「茎」の温度がまじりあい、浸透し合うのだ。
 何行か前に、私は「時間が入り乱れる」と書いたが、時間が浸透し合う、と書くべきだった。何かに手を触れると、その触れた「対象(たとえば百合)」と「肉体」のあいだで、「体温」の行き来がある。百合が冷たいとき、人間の「体温」が百合に移り、おなじ「ぬるさ」になるだけではなく、その「ぬるさ」を「肉体」は感じ、自分のうちにとりこんでしまう。その相互作用がある。
 それは「声」、ことばの場合も起きる。
 誰かが何かを言う。そのことばと「肉体」が触れあう。「声」を聞くということは、「ことば」が「肉体」に触れるということであり、「肉体」に触れたものは「肉体」のなかへ浸透してくる。「肉体」のなかへいったん入ってしまえば、それは誰のことば? 誰の「声」?
 その声がはっきり聞こえるとしたら、それは外から聞こえるのではなく、「肉体」の内から聞こえるのでは? 「肉体」のなかにある何かが、外にある「声」を引き寄せ、「肉体」の内で、別のことばに変えてしまうのでは?
 --そんなことは斎藤は書いていない。たしかに書いていない。けれども、私はそんなことを考えてしまうのだ。
 ショーウンドウに映っているのは「じぶんの顔」、百合はショーウインドウのなかにある。「わたし」と百合とのあいだには、ガラスがある。けれど、そのガラスは斎藤がことばを動かしているあいだ、消えていた。ガラスを超えて、「わたし」と百合が浸透し合っていた。「美しいでしょ」ということばといっしょに。何かが浸透しあい、ふっと入れ代わる。その瞬間が、すばやく書き留められている。

 この何かが浸透しあう感じ、入れ代わる感じを「夕明り」では、斎藤は次のように書いている。

小さな窓を夕明りがひらいてくる
しずかに宙がえりする白

 「宙がえり」。おもしろいねえ。宙返りって、どういうこと? 宙返りしても、その存在はもとのまま。もとの位置、もとの姿にもどるから宙返り。けれど、それが元にもどるあいだに、くるり、何かが入れ代わる時間があったのだ。
 宙返りした「白」自体も、宙返りすることで何かを見ただろうけれど、その宙返りをみた斎藤も宙返り以上の何かを見ている。それが斎藤の「肉体」に浸透してきて、もう一度外に出る時、それが詩の2行になったのだ。



 河邉由紀恵「ガーデン」も、ことばにして説明するとめんどうくさい(これはうまく書けないということをごまかしていうときの私の口癖かな……)。何か、ことばでは説明しにくいけれど「肉体」でははっきりと感じ取れるものをきちんと書いている。

春の風はしだれ桜の枝をゆらし
黄ばんだミモザの花をちらすだろう

そのため空気がうすくなったことにわたしはきづくが
そばにいるあなたはきづかない
というぐあいに ときにちいさな影をもはこんでくる

庭にいれば
わたしはしあわせなのだろうか
いや じつのことろすこしは不安ではないのか
ちどめ草をぬきながら考える

たとえばふた月まえに地獄坂の階段をおりた底のほうの店におきわすれた
ふわふわの黒いふぁーのことをわたしはわすれようとして
庭にいるのではないのか

 2連目では、「ちいさな影」が論理的にしっかりとことばにされている。それとは逆に4連目の「ふわふわの黒いふぁー」は論理的じゃないね。
 2連目は論理的ゆえに、「抒情的」にも見える。「抒情」というのは「論理」というか、「頭」でことばを整理することと、どこかでつながっている。「頭」で整理されたことばは一種の「ことばの共有ルール」をもっている。そのために人とひとをつなぎ、そのつながりのなかで、ひとはなんとなく安心する。私も同じように感じる--と安心していえるのが、たぶん「抒情」の重要な要素なのだと思う。
 それと比べてみるとわかりやすいが「ふわふわの黒いふぁー」って、変だよね。それ、わかる--でも、「わかる」とは言いたくない。こういう共感はごく親しい間柄ならいいけれど、知らないひとの前では隠しておきたいねえ。共通のことばにならないもの、「頭や「精神」で整理されたものではないことばというのは、「なんだそれは、ちゃんとした日本語(論理的な日本語?)で言えよ」と叱られそうで、人前では言えないねえ。
 でも、そういうことばが、いいなあ。
 「論理」でも「頭」でも「精神」でもなく、ただそこに「ある」としか言えないもの、「肉体」の安心感がある。「抒情」が「頭」の安心感なら、「ふわふわの黒いふぁー」は「肉体」の安心感だねえ。

 この河邉の「声」は、斎藤の「あらあら手がよごれるよ」「美しいでしょ」と、どこかでつながっている。その「どこか」と、それが「どんなふうな」つながり方をしているか--ということを、ほんとうは書かないと「批評」にならないのだけれど。
 書けない。
 ややこしくて、めんどうくさい。--ようするに、私のことばは、そこまで書けない。でも、そこのことろをほんとうは書きたいと思っていることだけは、書いておきたい。





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