一色真理『ES』(3) | 詩はどこにあるか

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一色真理『ES』(3)(土曜美術出版販売、2011年06月20日発行)

 一色真理『ES』は「14 鏡」という作品を境にして、反転して行く。番号が鏡文字になる。「80 イド(id)」は「08」を鏡に映した状態である。「80」ではなく「08」。一色のなかでは区別がついているのかもしれないが、私にはこの鏡文字の番号は区別がつかない。同様に、「14」を境にしている詩集の構造もよくわからない。詩集のページをめくるたびに(作品を読み進むたびに)ことばにこめた「意味」の度合いがだんだん重くなってきているのが感じられるが、そのことが気になって「14」とそれ以後の区別がよくわからない。わからないことは、無視して……。
 「80 イド(id)」の前半。

エスの町では地面に穴を掘ると、必ず水が湧き出す。けれど、誰も
そこに井戸を掘ろうとする者はいない。出てくるのは赤い水ばかり
だからだ。それに、一度できた傷口から流れ出す血は、けっして止
まることがない。

言い忘れたが、ぼくの家の裏庭には、エスでただひとつの井戸がある。
底なしの井戸だ。ぼくが生まれた朝、父はここにぼくを投げ込んだ
という。血まみれの赤ん坊はしかし、死にはしなかったのだよ。

ぼくを追って、母が井戸に飛び込んだ。そして、ぼくは井戸の中で
母親の血首を吸って、大きくなった。ぼくと母は今でもそこにいる。
地の底。それとも血の底にというべきだろうか。

 「地の底」「血の底」。どちらか区別がつかないと一色は書いているが、もちろん「血の底」と書きたいのだ。「乳首」ではなく「血首」と書いた時から--いや、そういうことばを書くはるか前から、一色は「血」の「奥」にひそむものを「神話」のなかにとりこみたいと願っている。血なまぐさい「神話」。そして、そのなかで浄化される精神(こころ、魂)というものを願っている。
 「血の底」と書くことで、実際に、「血の底」を生きるのではなく、「血の底」を浄化したいのである。「血」ではないものにしたいのである。「血」であっても、その血をよごれた血ではなく、清らかなものにしたいのである。
 「地の底」「血の底」、そしてその「血」にさまざまな「血」がある。父の血があり、母の血があり、「ぼく」の血がある。それは「ぼく」のなかでは混じり合っている。そのことが「ぼく」の苦悩なのだが……。
 何と言えばいいのだろう。
 「意味」が強すぎる。「意味」が過剰すぎて、楽しくない。一色が過剰な苦悩を抱えていることは推測できるが、そういうものは私は推測したくない。(他の読者はどうかしらないが、推測したくない)。では、そういうものを私が拒んでいるのかというと、そうではない。私は推測はしたくないが、実感したい。「推測する」ということを通り越して、そのままを見たい。整理されずにある「生」の形を見たい。「血」などということばをつかわずに、あ、血だ、と感じたい。「血」という「文字」を見たいわけではないのだ。一色の書いている「血」は「文字」であり、「ほんもの」ではない。「文字」を読みながら「ほんもの」を推測するというのは、とてもつまらない。

 ニセモノであっても、本物が見たい--あ、いい間違えたなあ。こういえばいいのだろうか。間違っていても、「ほんもの」が見たい。「血」というこことば(文字)があてはまらなくてもいいから、「ほんもの」の血が見たいのだ。
 「血」と書けば間違いはないのだが、その間違いはないということによって「ほんもの」がどこか遠くに置き去りにされている。そう感じるのだ。「ほんもの」ではなく、「概念」を読まされている--そういう気持ちになるのだ。「概念」--その「間違いのない」ことばの運動など、おもしろくない。

 「概念」が「間違いのないことば」ということを補足すると……。
 この詩には「エス」ということばが出てくる。それからイド(id)が出てくる。このことばを一色は詩の注釈の形で説明している。「イドはフロイトの精神分析用語。ほぼ「無意識」に近い。エスはそのドイツ語。」
 一色は「エス」(イド)ということば、「無意識」ということばをフロイトから借りている。そして、その借り物を「井戸」をつかって「物語」に仕立てている。「井戸」の記憶がいつまでも「意識の底」を残っていて、それが「無意識」となって「ぼく」を支配している。
 こういうとき、私にはよくわからないのだが、ほんとうに一色のことばは動いているのか。そこで動いていることばはほんとうに一色のものなのか。私には、そうは感じられないのである。そこにあるのはフロイトのことば、あるいはフロイトとして「流通」していることばである。これでは、おもしろくないなあ。これでは一色が語っているのではなく、フロイトが一色の「無意識」を語ることになる。そこに書かれていることが「間違い」だろうが「正解」だろうが、それはフロイトの「間違い」「正解」であって、そこには一色はなんの関係もない。「材料」としてあるだけであって、「ことば」としてあるのではない。これでは詩ではない。
 フロイトの言っていることを、一色自身のことばで言いなおすことが必要なのだ。どんなことでもそうだが、まだ起きていないことは何もない。語られていないことは何もない。人間は生まれてきて、誰かと出会い、恋愛し(恋愛の対象は異性であったり、同性であったり、音楽であったり、数学であったり、といろいろだが)、恋愛することで自分自身が変り、死んでいく(死ぬことで何かのなかで生き続ける)--それだけである。それ以外のことはできない。みんな同じことをしている。同じことをしているけれど、その同じことをその人自身のことば(絵画なら、色・形、音楽なら音、数学・物理なら数式)で書き直すのである。自分のことばで書き直したとき、それは「芸術」になる。ひとを感動させるものになる。
 私の大好きなソクラテス先生(プラトン先生?)は、あらゆることを自分のことば言いなおそうとした。「流通している言語」ではなく、自分のことばで言いなおそうとした。そして、「わからない」という結論にしか到達できなかった。自分では「わからない」というところにたどりついたことばだけが、真のことばなのだ。他人のことばを借りて言ってしまうと「わからない」がなくなってしまう。
 誰だってわからない。そして「わからない」ものがそこにあるから、勝手にその「わからない」を「誤読」する。つまり、自分のことばで言いなおす--その瞬間、よくわからないが「わかった」という気持ちになる。何かを「実感」する。
 「80」「08」、イド、井戸、地の底、血の底ということばは、そういう世界からもっとも遠いところにある。
 こういう作品は、私は嫌いである。



 


詩集 元型
一色 真理
土曜美術社出版販売



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