一色真理『ES』(2) | 詩はどこにあるか

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一色真理『ES』(2)(土曜美術出版販売、2011年06月20日発行)

 「07 喪失」という作品も,とても好きだ。

ぼくは立ち上がれない、と言って、椅子になってしまった。
もう横たわることも、眠りに落ちることもないだろう。
悲しみがすぐその背を黒く塗りつぶした。
それから窓の外は永遠の真昼だ。

高すぎる空に向かって、一度ごけ公園のサイレンが大声で叫んだ。
それでも草に埋もれた噴水は黙りこくったまま、ずっと考えている。
ここからいなくなったのは、誰だったのかと。

 「ぼく」が「椅子になる」というのは「比喩」である。「比喩」ということは、それは「現実」ではないということである。物理(生物?)の現象として「現実」ではないのだが、心情としては「現実」よりもはるかに「現実」である。人が何と言おうが、「こころ」は「椅子」になってしまったぼくしか認めない。
 「椅子」にはいろんな「意味」があるだろう。つまり、「椅子」ということばを発する時、そのことばに託した夢、願い、祈りがある。「椅子」というもののなかに、「ぼく」がなりたいと思っている何かが、つまり「意味」がある。それは、しっかりと立っているということかもしれない。誰かによりかからずに、「椅子」一個で立っているという状態かもしれない。何かを座らせている、何かを座らせるもの、という「意味」かもしれない。そして、それはもしかしたら何かを座らせたい(休ませたい)という「ぼく」の「いのり」を裏返しにして表現したものかもしれない。あるいは、いま私が書いたことのすべて、そしてそれ以上のものを含んでいるかもしれない。--何かはっきりしないが、「比喩」であるかぎり、そこには「いま/ここ」にないものが含まれている。「いま/ここ」にいる「ぼく」の状態を超えるものが託されている。
 「椅子」がたとえ自分では歩けない存在であるとしても、そういう否定的というか、マイナスの要素を含んだものだとしても、そのマイナスを超える何かが。想像されているのである。そして、マイナスを含んでいるということは、何かしらの悲しみを連想させる。悲しいこと、つらいことが「椅子」になることによって「乗り越えられる」と思うからこそ、「椅子」になるのである。
 一色は、そして、幸福ではなく、いま私が書いた「マイナス」の要素だけを書いている。「もう横たわることも、眠りに落ちることもないだろう。」これは、つまり、横たわること、眠るというやすらぎを捨ててでも「椅子」になりたい「何か」が「ぼく」にはあって、その「何か」は横たわる、眠るということを「代価」としてはらってもかまわないと思うだけの何かなのである。
 何であるか、一色は、はっきりとは書かない。はっきり書いていないから、想像力が駆り立てられる。

悲しみがすぐその背を黒く塗りつぶした。

 この1行は、いろいろな読み方ができる。「その背」をどう読むか。「椅子」の「背」であろうか。「椅子の背」とは「椅子の背もたれ」の「後ろ側」、つまり人間の背中が接しない部分のことだろうか。
 私は、少し違うふうに読んだ。「その背」を「椅子」のある部屋の壁、つまり「椅子」が背にしいてる「背景」と思った。「ぼく」が「椅子」になった瞬間、その部屋の壁は悲しみで黒く塗りつぶされた。あるいは、悲しみが壁を塗りつぶし、そのために壁が黒くなった。
 --これでは、悲しすぎるだろうか。
 たしかに悲しすぎるのだが、その悲しみの過剰が、たぶん一種の救いなのだ。悲しみが「背後」(椅子の背)となることで、もうどこにも行かない。それは、この部屋にとじこめられている。そこで完結している。「椅子」は悲しみをこの部屋で完結させるために存在するのである。言い換えると、「ぼく」は悲しみを完結させるために、あえて「椅子」になるのである。
 もしそうであるなら、「ぼく」の願い(祈り)、「比喩」に託したものは悲しみの「完結」である。それがどれだけ大きなものであってもいい。この部屋で完結する。椅子は、その悲しみを背負うのである。その上に乗せて、悲しみを休ませ、椅子自身は、その悲しみを休ませるために生きるのである。
 そのとき、部屋は悲しみで完結するがゆえに、「窓の外」(部屋の外)は明るい「永遠の真昼」である。
 「外部」の「永遠の真昼」を手に入れるために、「ぼく」はあえて「椅子」になることを選んだのである。

 ここには、どうすることもできない「矛盾」がある。いくら「外部」が「永遠の真昼」であっても、「ぼく」が「椅子」であるかぎり、外へは出て行けない。それは見えるだけで、自分自身では「体験」できない。ああ、そんなことはわかっている。わかっているが、たとえ出ていけなくても「永遠の真昼」をみたいのだ。それが「ことば」にすぎないもの、幻であっても、「ことば」にしたいのだ。ことばを口にする、声にすることでしか、自分のものにできない「夢」というものがあるのだ。

 2連目は、この矛盾をもう一度別のことばで繰り返したものである。「ここからいなくなったのは」「ぼく」であるということは明白である。1行目に「ぼくは(略)椅子になってしまった。」と書いている。「ぼく」がいなくなり「椅子」がかわりにここで生きているのである。
 わかっているけれど、「誰だったのか。」と問わずにはいられない。それは、「椅子」でありながら、やはり「ぼく」でありたいという「願い」(欲望)があるからだ。その欲望があるなら「椅子」にならなければいいじゃないか--というのは、人間が「矛盾」を生きることを知らない人間の考えることだ。
 「矛盾」なのかへ人間は飛びこんでいく。そのなかで、自分が自分でなくなり、新しく生まれ変わることを願うのが人間の唯一できることがらである。





DOUBLES
一色 真理
沖積舎



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