一色真理『ES』 | 詩はどこにあるか

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一色真理『ES』(土曜美術出版販売、2011年06月20日発行)

 一色真理『ES』は、巻頭の「01 バスの中で」がとてもおもしろい。

バスの中でぼくは生まれた。狛江駅から成城学園前まで行く路線バ
スの中で、父と母が愛し合ったから。父は明照院で、母は若葉町三
丁目で降りていき、ぼくはひとりで大きくならなければならなかった。

バスから降りたとき、ぼくは小学生になっていた。小田急線に乗っ
て 、新宿に着いたときには中学生で、向いの席に座っていた少女
に初めてのキスをした。高校生の間は地下鉄に乗っていたので、長
い長い暗闇だけが窓から見えた。気がつくとそこはお茶ノ水で、ぼ
くは髪の長い大学生。星の一生を研究して論文を書き、後楽園の大
観覧車で恋人と結婚した。

地上に降りたとき、妻は身籠もっていた。ぼくと妻はジャンケンを
して、どちらに歩いていくかを決めた。三人はそれから長い長い間、
坂を登ったり降ったりした。たくさんの夜が自転車に乗ってぼくら
を追いかけてきた。

信号が変わると、息子は道ばたの花になっていた。妻は夜空に陽気
な尾を引く帚星だった。ぼくはひとり深夜バスに乗り込んで、少し
だけ眠ろう。朝は空飛ぶ豚に乗って、あっという間にやってくるは
ずだから。

 ある瞬間が、乗り物(路線バス、小田急線、地下鉄、観覧車、自転車)と地名によって刻印される。そして、そのふたつに関係する「事件」がある。次から次へと起きる「事件」は、マルケスの「神話」のようである。動きが速すぎて、眩暈を感じる。
 この眩暈のなかには、ほんとうは多くのものを省略している、というべきか。書かれることがらは、実は何ひとつ書かれていない。「事件」が乗り物と地名を結びつけながら、動いていくが、そこには「感情」が省略されている。「ぼく」の感情が書かれていない。
 「神話」は、「神」の話である。「神」には「感情」はない。ただ「行動」がある。「神話」は、その「神」の行動を見ながら、人間が「神」に自分の感情を押し付ける形で、自分自身を救済するためのものである。「神」が行動する時、人間の感情は激情にまで高められ、純粋に燃焼に強烈な光を発する。その強烈な光が、世界を鮮やかすぎる光と影とに分類する。私たちは、そこに、世界の断片だけを見ることになる。--この作品に則していうと、その断片とは乗り物と地名である。そして、それに父、母、少女(恋人、妻)をつけくわえることができるかもしれない。登場人物は「人間」であるが、「神話」なので「神」の姿をとっている。つまり、「感情」はそこでは描かれない。「感情」はふりはらわれ、ただ行動がある。
 出会う。愛し合う。身籠もる。出産する(生まれる)。
 このひとつづきの行動のなかには、ひとつ不思議なことがある。どうすることもできなことがらがある。それこそ「神話」でしかありえないこと、「神」の「意思」以外では説明できないことがある。
 出産する--が、生まれる、にかわる瞬間。「主・客」が転換する瞬間。
 突然、世界が交代するのである。--この交代のために、交代を納得する(納得させる?)ためにこそ「神話」というものがある。あらゆる不思議なこと、説明できないことを受け入れる「装置」として「神話」が必要になる。
 産んだ--が、生まれるに変わる瞬間。
 生まれた人間は、世界のことを何ひとつ知らない。産んだ人間が知っていることを、生まれた人間は知らない。激しい断絶があり、その断絶を抱えたまま世界は存在している。その断絶をつなぎとめるために「神話」があり、「神話」のなかに、人は、自分の行動をたたき込む。つまり「神話」を借りて、戦う。暴力を生きる。好き勝手に、自分の思いを代弁させる。そうすることで、人は「神」になる。
 人間のことばで言えば、「世界に参加する」ということになる。自己主張をし、他人と出会いながら、世界を発見していくとうことになる。
 「神」のことば(神話の構造)で、そういうことを言いなおせば、感情のままに行動し、自分だけではなく、他人にまで勝手に動かしてしまう存在になる。

 そんなことまで一色は書いていない。--たしかに書いていない。書いていないように見える。しかし、書かれているのだ。「産んだ」を「生まれた」と「主・客」を逆転させた時から、人は「神話」を生きる運命なのだ。「バスの中でぼくは生まれた」と書き出した瞬間から、一色は「神」として生きている。「バスの中で、母はぼくを産んだ」とも「バスの中で、父と母はぼくを産んだ」とも書けたはずなのに、一色は父と母を「主語」にはしなかったのだから。
 
 一色の、最初の激情は「ぼくは生まれた」に刻印されていると同時に、「ぼくはひとりで大きくならなければならなかった」にも刻印されている。「ひとり」と「ならなかった」。感情、あるいは「ひとり」という感覚は「ぼく」だけのものであり、誰とも共有されない。共有されないことによって、一色は「神話」のなかの「神」になる。「他者」を排除する「非情」な存在になる。
 「非情」というのは、「情」がないということではない。自分の「情」は大切にする。しかし、他人の「感情(情け)」を気にしない。配慮しない、ということである。
 ここから、「神話」の清潔さが生まれる。「他人」のことを配慮しながら行動する「民主主義」では「神」の清潔さは実現できない。
 一色のこの作品における、その証拠。というと、きっと一色は驚く。(この文章を読んでいる他の読者も驚くかもしれない。)
 その証拠は。

少女に初めてのキスをした

 この「少女に」の「に」。キスというのは二人の人間がいて初めて成立する行動である。ひとり「と」ひとりがキスをする。ひとりが、ひとり「に」キスをするのではない。少女「に」キスをするとき、「ぼく(一色)」は「神」なのである。自分自身の感情にしたがい、その感情で「肉体」を動かしている。そのとき、他人(少女)の感情より、自分の感情が絶対的に優先されている。
 そういう瞬間が、誰にでもある。
 (父と)母がぼくを「産んだ」が、ぼくは「生まれた」に変わる時の、自分を絶対的に優先させる「視点」。この「絶対」の感覚が、この詩集を特徴づけるのだ。ある瞬間、「絶対者」となり、世界に対して動いていく。そして、そこに自分の「神話」を作り上げる。少女「に」キスをする。そうして、少女は自分を愛しているという「神話」を作り上げる。

 だが、「神話」だけでは書けないものがある。人間は「神」ではないから、「激情」だけを生きるわけにはゆかない。
 「神話」を人間の体温のなじむところまで引き下ろし、そこで感情を「和解」させないと生きていけない。「神話」を「物語」にまで引き下ろし、そこで「人間」同士として出会わないと、生きていけない。
 --だから、一色は、以後、そういうことを書いていく。「01 バスの中で」では書き切れない「情」を少しずつ丁寧にことばに定着させていくことになる。
 けれど、その一色の意識のなかには「神話」は息づいている。この「01 バスの中で」は一色のことば全体のプロローグなのだ。




歌を忘れたカナリヤは、うしろの山へ捨てましょか
一色 真理
NOVA出版



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