楽しいシーンがいっぱいあるのだが、一か所、涙が出るくらい笑い転げたところがある。まわりの観客に申し訳ない、と思うくらい笑ってしまった。
兄(前田航基)が「家族4人で暮らしたい」と夢を語る。その夢を聞いた弟(前田旺志郎)が、その夜夢をみる。離婚の原因が語られる。父親がミュージシャンになる夢を捨てきれず職を転々としている。そのことに対して母親が怒鳴り散らしている。食べ物をぶつけたりする。兄の方は両親の間を取り持つのに懸命である。弟の方は食べることに夢中で自分だけ皿を持ってけんかの場所を離れる。そして、「あんなの(けんかしている家族)、絶対いやだ」という。家族が嫌いなのじゃないけれど、けんかしているのが嫌いなのだ。
この矛盾--矛盾と言っていいのかどうかわからないけれど、生きるというのは、まあ、こういうことだろうなあ。何にでも好きと嫌いがある。嫌いを受け入れながら好きを優先しているのかもしれない。そこに「嘘」が入ってくる余地がある。--そういう面倒くさいことは、まあ、おいておいて……。と、いいたいけれど、この「嘘」が、ある意味でこの映画のテーマでもあるし、是枝監督のテーマでもあるかもしれない。家族がある。家族がいる。そのとき、そこには「嘘」が入ってくる。それは「必要」なものである。
最後のシーンが、その「嘘」の美しさ。
子どもたちの「家出」というか「冒険」。子どもたちは「友達の家で勉強してくる」と言っているようである。その「嘘」はばれてしまっている。兄が家に着くなり、おじいちゃん(橋爪功)に「ばれていない」と聞く。「大丈夫、ばれていない」。それが「嘘」なのだけれど、大人は子どものために「嘘」をつく。そうやって、子どもの「こころ」を守る。
今か今かと心配で孫が帰ってくるのを待っているおばあちゃん(樹木希林)が、孫の姿に気がつくと待っていたことを隠してぱっと家のなかに引き返す。いいなあ。どこへ行っていたかも聞かない。母親も、子どもの無事を確認したいのをぐっとこらえて顔も見ずに受け答えする。この「嘘」。子どもは大人の「嘘」に守られて「ほんとう」を生きる。そのとき子ども「嘘」をついているのだけれど、その「嘘」のなかには「ほんとう」がある。
この「嘘」と「ほんとう」の両立は、論理的には「矛盾」になるのだけれど、この「矛盾」が「思想」というものである。「思想」(暮らし)というものは、いつだって「矛盾」を含みながら動いているのである。
あ、変なことを書いてしまったなあ。
映画の魅力から、ちょっと遠ざかってしまった。で、映画に、引き返そう。
是枝監督の映画では「食べる」シーンがいつもおもしろい。いきいきしている。楽しい。最初に書いた夫婦喧嘩のシーンでも食卓である。弟は、ちゃっかり(?)食べることを貫いている。たこ焼きを買って、たこだけ取り出して食べたり、自分で育てたトマトをまるかじりしたり。助けてくれた見知らぬ老夫婦の家で、出前に「馬刺し」があるか聞いたり。それから、かるかんをつくったり。--このかるかんづくりもていねいでいいなあ。ちゃんと山芋を買うところ、グラニュー糖を買うところまで映画にしている。映像化している。材料を買うところ(わざわざ原田芳雄を連れ歩かなくても材料はそろうのだけれど、連れ回すところ)など、いいでしょ? 山芋をすりおろすとき、ただすりおろすのではなく「円を描いて」なんて、ね。食べ物、その「もの」にこだわる感じが。「生きる」というのは「食べる」ことなんだなあ、と見ながら感想が脱線していく。こういう瞬間に、私は映画の至福を感じる。映画に近づいたという感じがする。子ども(子役)がすばらしいので、子どもに視線がひっぱられてしまうけれど、それを支える「背景」(地)としての映画の部分もすばらしい。「地」がしっかりしているから、子どもの表情がいきいきしてくる。
子どもたちでは--それぞれの「夢」を語るシーンがいいなあ。「脚本」どおりなのかな? 違うだろうなあ。「脚本」もあるけれど、アドリブもある。子どものことばの調子と、顔の表情が、一瞬「演技」の枠をはみだす。映画の完成度(?)からいうと、そういう部分は「正しくない」のかもしれないが、そこが、おもしろい。子どもが「役」を演じている--というのを、見ていて忘れる。あ、「ほんとう」を語っていると思う。その「ほんとう」により近づけるために、主役の二人もアドリブで対応する。(二人には、いや、ほかの子どもたちにもまあ、基本的な展開は与えられているだろうけれど)。カメラの前で子どもが自分の夢を語る--そういう「ドキュメント」風の手触り(てれや、困惑をふくんだ正直さ)が、なかなかいい。こういう「なま」を見てしまうと、そこで展開される「嘘」(脚本の世界)が「嘘」ではなく、「ほんとう」になる。子どもたちの「ほんとう」の肉体が全体を「ほんとう」に染めてしまう。いや、内側から「ほんとう」へとひっくりかえしてしまう。そこに「映画の力」がある。
これは「映画」なのだけれど、「映画」じゃない。「映画」を超える「映画」だ。子どもは「演技」をしているのだけれど、「演技」じゃない。「ほんとう」が自然に出てくる。樹木希林の演技とくらべるとわかる。樹木希林は「ほんとう」を演じるという「嘘」をついている。子どもたちは「嘘」のなかで「ほんとう」を隠しきれない。隠しきれない何か、抑えようとしても出てきてしまうものが、スクリーンからあふれてくる。
「八日目の蝉」の対極にある映画だね。
(2011年06月07日、ソラリアシネマ2)
![]() | 歩いても歩いても [DVD] |
クリエーター情報なし | |
バンダイビジュアル |
