北原千代「天の梯子」 | 詩はどこにあるか

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北原千代「天の梯子」(「ばらいろの爪」03、2011年04月発行)

 北原千代「天の梯子」には不思議な行がある。

鎖をさすりながら じいさまは つるべに
くらいところからの使者を 汲んでいた

井戸小屋のじいさまは 三たび倒れたあとで
からだはんぶんはくろかった

近づいてはならぬ
いのちのくるところを そまつに思うてはならぬ
おまえは たからなのだから

奥底にゆらめいている くろぐろとした円形の水を
幼いわたしのひとみは映しとっていた
だれも知らない かくれたところで

じいさまは 鎖のにおいのする腕で
土蔵へひきずり入れた
鉄錠が おそろしい音で光をとじたとき
ごめんなさい
ぎんぎら もう見ません

 「いのちのくるところを そまつに思うてはならぬ」を私は何度も読んでしまう。「いのち」と書かれているが、その「いのち」が「いのち」ということばをはみだしているように感じてしまうのだ。
 この詩は、北原が小さいとき、祖父が井戸で水を汲んでいるのを見た。井戸に近づこうとすると祖父は「危ない、井戸に近づいてはいけない」と叱った、ということを描いているのかもしれない。
 そういうことを、ちらりと考えはするのだが、私は違ったふうに読みたいのだ。
 私の「誤読」に違いないのだが--間違っていることを承知で、私は「誤読」したいのだ。とくに「いのちのくるところ」ということばを。
 私の読みたいのは……。
 すこし縁起でもない話だし、申し訳ない気もするのだが、祖父は井戸の水を汲みながら死んだのだ。心臓発作か何か。原因はわからないが、井戸から釣瓶で水を汲みあげ(これはかなり重労働である)、そのとき、ふいに発作を起こした。三度、倒れたので、体は水と泥で汚れている。黒くなっている。「からだのはんぶんはくろかった」というのは、水と泥に汚れていない半分は黒くはなかった、ということかもしれない。不思議な冷静さで、北原は祖父を見ている。
 それというのも、祖父は「危ないから近づくな」と言っているからだ。近づいた北原にしがみつき、それからまた倒れ、ふたりとも井戸に落ちてしまう危険がある。だから、ちかづくな、と祖父が制している。「意味」がわかるので、北原は、じっとみているのだ。冷静に、祖父をみているのだ。
 このとき「意味」がわかるというのは、近づくと危ない、という「意味」がわかるだけではない。なぜ近づくと危ないのか--なぜ、父祖に近づくと危ないのかの「奥」に、祖父は死んでしまうのだということが直感できるということである。祖父は自分の死に北原を巻き添えにしたくないと、祈るような気持ちで「近づいてはならぬ」と言っているのだ。
 ほかにだれもいない。助けるとしたら幼い北原しかいない。それを祖父は知っている。祖父は自分のいのちをかけて「近づくな」と言っているのだ。
 そして。
 死んでいくこと--それを「死がくるところを邪魔してはならない」ではなく「いのちのくることろ」と言っている。「死」は「新しいいのち」だ言って、幼い北原を安心させようとしている。
 こんなふうにして読むと、次の「そまつに思うてはならぬ」の説明がむずかしいのだが、でも、私はそう読みたいのだ。
 「死--死という形の新しいいのち、それを毛嫌いしてはいけない、忌み嫌ってはいけない」。「そまつに思う」を、そんなふうに読むのは、何か、奇妙なねじれがあるのだが(つまり、そんなふうにして「そまつ」ということばをつかう例を私はちゃんと思い出すことができないという意味だが……)、それでも、そう読みたいのだ。
 私は死んでいく。それは新しいいのちになること。だから、その新しいいのちをちゃんと見守り、生まれるまで大事にしておくれ、死をうやまっておくれ--ああ、こんなことは書いていないのだが、私は、そう読みとってしまう。そう読みとりたいのだ。
 そう読まないかぎり「いのちのくるところを そまつに思うてはならぬ」という不思議な言い方の美しさが納得できないのだ。
 祖父の言っている「いのち」がほんとうに「いのち」なら、「いのちがくる」ということを「そまつに思う」人がいるわけがないからである。赤ん坊が生まれる、花が咲く、木が新しい芽を出し、葉っぱをつける--そういうふつうの「いのちの誕生」を粗末に思うひとはいない。「いのちのくるところを そまつに思うてはならぬ」と言うかぎりにおいて、「いのち」ということばには違う意味があると感じてしまうのである。
 「くるところ」というのも、「死」を感じさせる。「死ぬ」ことを「お迎えがくる」というが、「いのちのくるところを そまつに思うてはならぬ」は「お迎えのくるところをないがしろにしてはいけない」という「意味」なのだ。
 その「意味」がわかって、北原は、静かに祖父をみている。祖父を迎えに来た死に見つからぬように、隠れて、じっとみている。
 そのとき、北原は、井戸の底の水のゆらめきをみた。かつて、それをのぞき見たとき祖父は「危ない」と叱ったであろう。「死」はその水のきらめきのむこうにある。水をくみあげることは、ある意味では「お迎えをみずから迎える」ことでもある。そして、実際、祖父は死んでいく。
 祖父は幼い北原を巻き添えにしないために、自分を井戸小屋のなかに入れ(井戸小屋の中まで倒れながら這って行き)、内側からカギをかけた。間違って幼い北原が入ってきて、井戸に落ちるといけないからだ。そのこころを知って、北原は「ごめんなさい/ぎんぎら もう見ません」と誓っているのだ。

 この作品には、後半があって、そこでは「井戸」は「比喩」として書かれている。北原は、けっきょく、みずから「井戸」に「堕ちていった」。そして、そこから天へよじのぼろうとしている。北原は、いま、その天から降ってくる光を「梯子」のようにみている、というようなことがらが書かれている。
 この「比喩」としての「井戸」--それを考えるとき、私の「誤読」した部分は、「死」が「比喩」なのかもしれない。「比喩」としての「死」を考えれば、「比喩」の通りがよくなるのかもしれない、とも思うが、なぜか「誤読」を捨てたくないのである。

 いのちを粗末に思ってはいけないのはもちろんのことだが、死(お迎え)を粗末に思うことも間違いなのだ。死にはもっと敬意をはらわなければいけないのだ--そんなことを思うのだ。




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北原 千代
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