豊原清明「ハイク・ラック・中年」は「自主製作短編映画シナリオ」という断り書きがある。いつもいつも、豊原のシナリオには感激してしまう。
○ 小机(夜・風呂上がり)
ケータイに貼った「六十のさえない奴がなぜ恋に」の句を映す。
青いコップに入れた、大量の氷。
これは冒頭のシーンである。ここに書かれている「情報」は非常に少ない。そして、非常に少ないのだけれど、不思議なことに「過去」を持っている。携帯と、そこに張られた句の関係--これは、どういう関係があるのかわからない。その「わからない」関係を「もの」の力で乗り越えて行く。「不透明な過去」が、いま、そこ(スクリーン)にある--という感じが、とてもいい。
そして、その「不透明な過去」に「青いコップに入れた、大量の氷。」というこれも「過去」のわからないものがぶつけられる。不思議な衝突。「もの」と「もの」の衝突。そこに、詩がある。映像としての、詩がある。
途中を省略して、
○ いま使っているケータイに貼っている、「六十のさえない奴がなぜ恋に」
僕の声「なんでこの俳句にこだわるのか? 僕はそれを知りたい。」
○ お父さんとお母さんの写真
僕の声「これが、僕の父と母。迷惑ばかりかけて、すまない。」
このふたつのシーンでは、映像と音が一致しない。「僕」はスクリーンには登場していない。映像としては見えない。けれど、そこに僕の声がかぶさる。「もの」の「いま」に、「僕の過去」が衝突する。あるいは、そんなふうに見えるだけで、ほんとうは「僕のいま」に「ものの過去」が衝突しているのかもしれない。
どちらでもいいのだが、この瞬間、私は「もの」と「僕」が、とけあわないまま動いている、動いていくのを感じる。--そして、いま書いたことと矛盾していることを承知で書くのだが、「もの」と「僕」がとけあわないけれど、そのふたつの「出会い」の「場」というものはなぜが強い力で存在している。それが、とてもおもしろい。
「もの」とか「僕」ではなく「場」というもの、「場」の力を豊原は自然に呼吸し、それをことばにするのかもしれない。
○ 僕の顔を自分で撮り、己の出生をぼやく。(風呂上がり)
僕「(アップ。メガネ面。左側しか映らない。)
1977年、神戸生まれ、神戸育ち。6月25日生まれ。
(頭を下げて)今、無職。何もない!(顔を上げる。)
しゃかいふてきのうしゃと言おうか、自我、自我!これが僕を苦しめる。
(嘆息)最寄の駅に行くことすら、父付き添いじゃないと、外出できない。
自我!これが僕を、煩悩に陥れる。そうか…。いっそのこと、怪物になればいいんだ。
化け物に! なりゃあ、いいんだ。(撮影を切る)」
ここでは、「僕」は「僕」の過去を語っている。
映画というのは基本的に映像で語るものだから、こんな具合に「台詞」で過去を語っては、ほんとうは映画にならないのだが、豊原の場合は、映画になってしまう。
豊原にとっては「過去」はないのだ。--これは、矛盾した言い方、奇妙な言い方だと私は承知しているが……。説明が難しい。
豊原には過去がない。--とは、豊原にとっては、過去はいつも「いま」に噴出してきているものだからである。「過去」は「過去」の時間にとどまっていない。もちろん、それは誰にとってもそうなのだけれど、豊原は「過去」を「いま」と分離した形で処理できない。(ふつうは、これは「過去のこと」と、頭?で処理して考える。)豊原には「いま」という時間と「過去」という時間があるのではなく、「いま」という「場」があるのだ。「いま」は「時間」ではなく「場」。
豊原が「僕」を撮っているとき、「いま」という場には「僕」がいて「カメラ」がある。向き合っている。向き合いながら、豊原の「顔」は半分隠れている。カメラに写っているのが「いま」ならカメラからはみだしているのは「過去」ということになるかもしれない。その隠れているものを「ことば」で噴出させる。そうするとスクリーンには「場」に「いま」のおくから「過去」が噴出する形であらわれる。「いま」という時間のなかへ「過去」を噴出させる「場」が、ここに「ある」のだ。
「過去」が「いま」のなかに噴出したら、時間はどうしても動いていかなくてはならない。その瞬間の「動き」だけを、豊原は書く。「場」の動き--「場」の緊張を豊原は書いている。この緊張を--緊張はまた弛緩・解放であるととらえなおせば、そこから豊原の俳句の世界(遠心・求心)の運動が見えてくることになる。
豊原のことばは、いわば二重構造なのだ。二重構造であることは、映画のように映像とことば(音)の組み合わせ芸術の方が、より活性化するということかもしれない。だから、豊原のシナリオがおもしろいのだと思う。
*
豊原は東北大震災に綱かる詩を書いている。「ひとと海」。その前半。
真っ青な海があった
大震災の夢から
ふと、目覚めてみると
街が呑まれて
世界が・荒地
そんな時、
ふっと、浮かぶひとの顔は
悲痛な顔
けれど
八歳と九歳の男の子と女の子は笑った
先生になりたい
父のようになりたい
その顔を見て
怒りが、さーっと、
引いて行った
その笑顔を忘れたくない
その笑顔を残してほしい
その笑顔は今を一変させた
好きなひとがいることの
手汗の喜び
「今を一変させた」笑顔。そこに何があるか。「過去」があるのだ。「好きなひとがいる」というのが「過去」。先生になりたいのは先生が好きだから--先生が好きになるという過去の時間があるから。父のようになりたいのは父が大好きだから--父と一緒の楽しい楽しい過去が、子どもにそういわせるのである。
大震災によっても傷つかなかったこころ。傷つかなかった過去。それが「いま」という時間に噴出してきて「場」を輝かせる。
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