手塚敦史『トンボ消息』 | 詩はどこにあるか

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手塚敦史『トンボ消息』(ふらんす堂、2011年04月23日)

 手塚敦史『トンボ消息』には複数の詩が書かれている。複数というのは、単に作品の数のことではなく、複数の種類のことである。--と、書いても、私の感じていることをあらわしたことにならない。
 少し私の個人的な体験を書く。
 私は網膜剥離で手術をした。失明は免れたが視力は甚だしく劣化した。ほとんど見えない。ほとんど見えないのだが眼鏡で矯正すると、視力は1.5 までは回復する。しかし、これからが問題である。右目と左目の視力に差がありすぎる。矯正するときのレンズの度数が違いすぎる。それで、たとえば左右とも1.0 まで見えるようにして眼鏡をつくると、世界が突然散らばったようになってしまう。遠近感が狂って像が一つにならない。左目の像と右目の像が、てんでに存在し、世界が複数になる。
 慣れてくると大丈夫らしいが、非常に疲れるらしい。私はテスト段階で諦めてしまった。ものが散らばる感じが、眩暈につながり、吐き気がしてくる。
 このときの感じに、手塚の詩は似ている。(吐き気がしてくるというのではないが、)世界が散らばってしまう感じがする。世界を繋ぎ止めているものが解体し、「もの」がそれぞれ独自にそこに存在している感じがする。
 これは一篇の詩のなかでも起きる。
 「物」というタイトル(と、思う)の作品。

もしも水をためる中の
物に いずれの世の事を
うずめたら
かかる際限が
波紋になる

 「水をためる中の/物に」とは何だろう。「水」と「ためる」と「物」がばらばらにことばとなっている。瓶とか壺とかを私は想像するが、瓶や壺を「水をためる物」とはいっても、「水をためる中の物」とはいわない。「中の」がことばをばらばらにしてしまっている。
 そして、その「中の」は、「うずめたら」と不思議な具合に結びついている。
 「水をためる物」、たとえば瓶の「中」に、水の代わりに「世の事を/うずめたら」と私は手塚の書いていることばを無視して読んでしまう。
 私の視力では、手塚の見ている世界をそのまま「遠近感」のある世界として把握できないから、ついついそうしてしまう。
 だが、そう読むと読んだで、不思議な反動がかえってくる。
 私の読み方が「むりやり」であるという意識が、「像」を結んだはずの世界をもう一度ばらばらに散らしてしまうのである。「水」「ためる」「中」「物」「世の事」「うずめる」が、独立したまま、けっしてひとつにはなるまいと踏ん張っている感じが強く響いて切る。
 これは、私のように視力の弱い人間にはつらい。くらくらする。眩暈がする。
 そして、あ、この眩暈はたしかに「波紋」の揺らぎかもしれないなあとも思うのである。

身を硬くした黒馬がはげしく
鼻で息をする。
運び出す土木は 道のほとりに
積まれ、
作業場で二人が顔を見合わせたら
なにかが沈殿していくばかり。

 これは先の詩のつづきだが、黒い馬が木材を運んでいるイメージがまず浮かぶが、ここには「材木」ではなく「土木」ということばがつかわれている。「運び出す土木」。そして、それは「積まれ」る。
 何が書かれている?
 ひとつひとつのことばはわかるが、そして、そこには何らかの脈絡を感じるが、「流通言語」に置き換えようとすると、置き換わらない。ひとつひとつのことばがばらばらに散らばってしまう。遠近感がなくなってしまう。
 「作業場」の「二人」が誰と誰なのか、それもわからない。
 けれど、この遠近感の散らばりを読んでしまうと、なぜか「なにかが沈殿していく」という感覚は納得できるのだ。
 ことばの遠近感がほどかれ、ばらばらになり、ことばを繋ぎ止めていたものが、「なにか」となってことばの底に沈んでいく--ような気がするのである。
 まあ、これは、私のいつもの「誤読」であるのだが……。

もしも水をためる中の
物に かつての世の事を
うつせたら
 一滴、二滴、
ひろがった中の
物は 水上(みなかみ)に照り返って揺らぎ、

水面にうつる
 陽の光を わたしの指さきが
かきまわしても
 一人のもつ値(あたい)により
あやうげに護られつづける 物質よ!

かかる際限の波紋となれ

 かかる際限の
波紋となれ

 何が書いてあるのか--それは、わからない。ただ私は、ことばがばらばらに散らばり、遠近感のない「波紋」となって揺れているのを感じる。
 そういう「感じ」を手塚は、彼のまわりに存在する「物」のひとつひとつに感じている、ということかもしれない。
 そして、その「物」はそれぞれの「ことば」になる。
 「物」が「ことば」になる、というのは変な言い方だが(変だと、私は承知して書いているのだが)、手塚は「物」(存在)ではなく、ことばで世界を考えている、感じているという印象がある。--私には、そう感じられる。
 手塚にとって、世界に存在するのは「ことば」である。「物」が名付けられ、その「名付け」が「ことば」である。名付けるとき「物」は「ことば」に「なる」。そして、いったん「ことば」になってしまうと、その「ことば」から「物」が引き剥がされ、「物」同士の連絡(遠近感)が崩れ、「ことば」が「物」とは関係なく不思議な遠近感を作り上げていく。
 そう感じられる。
 たとえば、「Sonnet 3」(たぶん、これがタイトル)。

指に来(きた)す感覚はあけがた見失ったカワセミの緑青(ろくしょう)を
なぞり、地上に雨をもたらした。パレットに溶いた感触は、
取りも直さず伝言となり、最愛のものに雨をもたらした。
…「わたしは狂ってなどいない、…「ただ溢れでている …「ぬくもりだ

 「指に来す感覚はあけがた見失ったカワセミの緑青を/なぞり、地上に雨をもたらした。」ということばがひとつの文章だと仮定して(仮定の根拠は、句点「。」がそこにあるからだ)、指の感覚がカワセミの緑青に、目のかわり触れるということはあっても、その感覚が「雨をもたらす」ということは「現実」にはありえない。「雨」は気象であり、人間の感覚とは無関係である。そこには「遠近感」というか、「脈絡」はない。ないのだけれど、「ことば」はそこに「脈絡」をつくりあげることができる。「遠近感」をつくりあげることができる。自分の肉体の中の感覚と雨を結びつけることができる。
 こういうことは、手塚のことばを離れて考えても、ありうる。ひじが痛むと雨が降る--というのは湿度や気温の変化がひじに響いてくるということなのだが、そのことを逆にひじの痛みが雨を降らせると言いなおすとき、そこには「肉体」が世界を統一する、世界に脈絡をつくる、遠近感をつくるものとして見えてくるということがある。

 この、ことばにならない「肉体感覚」のようなものが、ことばをどこかで統一している。どこかに、強い肉体があり、それがことばに独自の遠近感を与えている。
 ことばは、完全に遠近感を失って散らばっているのだが、散らばりながらも、どこかにそれをつないでいる「肉体」がある。感覚がある。
 違和感と共感が、ばらばらのまま押し寄せてくる。くっきり見えることが、逆に遠近感を壊し、世界をばらばらにする--左右の度の大きく違った眼鏡で世界を見たときのような、不思議な眩暈を私は感じる。私の視力ではとらえることのできない「遠近感」を手塚が生きているという生々しさが、強く押し寄せてくる。





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