ジャウム・コレット=セラ監督「アンノウン」(★★★+★) | 詩はどこにあるか

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監督 ジャウム・コレット=セラ 脚本 オリヴァー・ブッチャー、ステファン・コーンウェル 出演 リーアム・ニーソン、ダイアン・クルーガー、エイダン・クイン、ブルーノ・ガンツ

 あっ。
 私は、こういうストーリーが主体の映画、特にトリックを「売り」にしている映画は嫌いなのだけれど。
 あっ。
 やられましたねえ。
 優秀な科学者が事故に巻き込まれ記憶喪失になる。おぼろげながら記憶を取り戻してみると、自分がもうひとりいる。妻も自分は知らないという。どうなっている?
 --よくあるストーリーと思っていたら。
 なんと、記憶喪失になったのは科学者ではなかった。暗殺集団の、ヒットマン(狙撃者)だった。自分がヒットマンであることを思い出せず、科学者であると思い込む。そこから始まるトラブル。
 これは「脚本」の勝利ですねえ。設定の勝利ですねえ。
 暗殺集団にとって、「目的」を忘れてしまった男は邪魔者以外の何者でもない。だから執拗に男を殺そうと襲い掛かってくる。かつての仲間に狙われつづける男。しかも、笑ってしまうのは、この暗殺集団の、いわば企画者である男がヒットマンであるという「自己」を忘れてしまったとき、善良な男になる--科学者になってしまうというのが、ねえ、すばらしくおかしい。
 これを「シンドラーのリスト」のリーアム・ニーソンがやるから、だまされちゃいますねえ。
 まあ、ストーリーはそんな具合で。
 映画としておもしろいのは、記憶を失ったリーアム・ニーソンが「代役」の暗殺者と出くわすシーン。「代役」の科学者ももちろん科学者ではなくニセモノなのだけれど、そのいわばニセモノ同士が、狙われている対象の本物の科学者の前で、私が本物と言い合うシーン。あ、私の説明、わかりにくい? わからなくていいんです。ネタバレの部分ですから。暗殺者であることを忘れてしまった男と暗殺者が、暗殺者になるために記憶したストーリーを科学者の前で披露する。それがねえ。傑作。音楽でいうと「斉唱」になる。二人が同じスピード、同じ抑揚で同じことばを繰り出す。
 本物の科学者はびっくりしますねえ。これいったい何?
 あ、私もびっくり。見ている観客はみんなびっくりすると思う。これ、何? どうしてここまでことばがそっくりそのまま? リーアム・ニーソンになりすましている男は、どうしてリーアム・ニーソンの記憶をそのままそっくり知っている?
 実は「記憶」ではなく、仕組まれたストーリーの「細部」だからですねえ。いつでも、その細部を言えるように訓練してきたからですねえ。
 で、そういうことは後からわかることなんだけれど、あとからわかることには、リーアム・ニーソンの肉体の動き--これもある。科学者らしからぬ行動力がある。行動力といっても「善良」な市民の記憶しかないので、逃げるだけなんだけれど、ふつうはそんなうまい具合に逃げられません。一般市民は。科学者は。
 でも、ほら。観客って(私だけ?)、やっぱり逃げている主人公が無事逃げられると安心するでしょ? そういう「心理」を巧みに応用して、はらはら、どきどきをつないで行く。
 あざといくらいによく練られた映画だなあ。
 ブルーノ・ガンツがベルリンの天使ではなく、かといって悪魔でもない、でも悪魔のような匂いをただよわせて映画の嘘を支えているのもいいなあ。
                                (中州大洋4)


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