福田拓也「その絶えずゆらぎたゆたう……」は、句読点があったりなかったりする。
その絶えずゆらぎたゆたう不可視の壁を辿るようにしていくつもの斜面や断崖、段丘をめくる視線の跡地にさまざまな字面の空蝉がぼんやりと光を放っている複雑な画数を辿るもの進んでは後退するものその細かく仕切られた迷路をほとんど形の崩れた不定形な裸体が枝分かれしつつ多方向に伸びて行くがその奥底に光を反映する黒い水の瞳は瞬いているだろうか
「断崖、段丘」のあいだにある読点「、」は漢字がつづいて読みにくいからつけたのだろうか。しかし、まあ、この読点こそ、なくても「文」には影響がないだろう。
この句読点が不自然な福田のことばの特徴は、句点「。」が省略されることで、どこまでが一文かわからないところにある。さらに、その途切れ目のない文を、福田のことばをまねして言えば、「その」ということばが絶えず引き継ぎ、引き継ぐことで「ゆらぎ」「たゆたう」ところにある。そして、その「その」による引き継ぎが、実は句点「。」の役割を果たしている。
火を飲み込み赤く輝くような水面はあるにしても恐らく果てのない底なしの底にそこでむしろ目を閉じるようにして眠りをむさぼっているのでもあろうかそこにいたるまでの屈曲はそれ自体が肉の壁と地層を構成したそこここに埋まる骨の光る夜をどこかで囁いて羽のこすれるような微かな声たちが行き着けない高みを仰ぎ見る亡き視線の
どこで引用を終えればいいのかわからないので、ここまでにしておくが、「底なしの底にそこで」の「そこ」がおもしろいのは、その「そこ」が前出の「底」から次の文章を切り離すためというか、次の文章のことばを自在に動かすための跳躍台になっていることである。いままで書いてきたことを無視(?)して、違ったことを書きはじめるために「その」ということばがつかわれている。
いままで書いてきたことと無関係なことを書いてしまうと、文章というのは「でたらめ」になる。ことばの「論理」がなくなって、「無意味」になる。その「無意味」というか、「論理の否定(破壊)」を「その」がごまかしている。ごまかしているというのは、ちょっとことばがよくないのだが、言いなおすと、論理の否定(破壊)を、「その」によってあたかも「論理」があるかのように仮装している。「論理」というのは、ようするに「連続」のことだからである。切断ではなく、連続。あることがらが連続するなら、そこには連続をつらぬく「論理」がある--という仮装のこころみ。
こういうことに、何か意味があるのかといえば。
ない。
そして、矛盾して聞こえるかもしれないが、この意味がない、無意味、がこの詩の面白さである。
「その」によってむりやり「連続」が仮装され、ことばが動くとき、そこでは「無意味」が動いている。何の関係もないことばが動く。ことばは、前に書いたことと無関係に動ける。自由に動ける。そして、その自由とは、きっと「美」なのである。つまり(?)、そこには福田の「美意識」だけがはっきりと存在している。そして、その「美意識」は福田の場合、「視線」(目の力)がつかみとってくる。
その絶えずゆらぎたゆたう不可視の壁
この書き出しの「不可視」は不可視といいながら、視力を離れることがない。むしろ、「可視」を追い求める。繰り返される「光」「輝き」が、そのことを語っている。
で、このことが、私にはちょっと不思議。書きながら、何かを踏み外したような気持ちになる。福田のやっていることと、私の感じていることが、うまく重ならない。うまく福田のことばを追いつづけることができないという感じが、ふいにしてくるのである。おもしろいのだけれど、一方で、あれっ、とも思ってしまう。頭ではわかったつもりでも、何か、私の肉体がついていかない。
「その」によって接続(連続)を仮装しながら、展開することばが「視力」の世界であるというのは、うーん、むずかしい。
視力というのは「接続(連続)」とは相いれないものだからねえ。簡単に言うと、目は必ず「距離」を必要とする。目を対象にくっつけるとき、何も見えない。対象を見るには目と対象の間に「距離」がないといけない。接続していてはいけない。
離れること、自己(目)と対象を話さないことには、対象は「像」を結ばないのが「肉体」と「対象」の関係である。--この「基本的なあり方」を福田は、わざとねじまげ、そこでことばがどれだけ動くか、不思議な力業を試みていることになる。
どうなるのかなあ。
福田も、まだ、福田自身の「決着」をつけていないのかもしれない。詩の最後の方は、最初の方とはまったく違ったことばの動きがある。読点「、」が頻繁に出てくる。
巨大な眼球の闇そこを通って遥か遠くに見えてくるのは斜面に見え隠れする黒白の語たち灌木の葉や草を食みながら常に移動し続けている、皮膚の凹凸を水のないたくさんの川筋が走り様々な文字を刻んでいる、どこまでが自分の体なのかはっきりわからない、文字たちが皮膚を傷つけながら這うその痛みで時折り体の所在と限界がはっきりするがその感覚も程なく消えてしまう、
視覚から触覚への主体の変化がある。視覚の結ぶ「像」とは別に、触覚が結ぶ「像」がある。それが福田の「肉体」のなかでは融合しない。そして、その融合を拒否しているのが「文字」である。(書き出しの部分には「複雑な画数」という表現があったが、それも「文字」そのものを別なことばで言い換えたものだ。)
ことばは、福田にとっては、「文字」(視覚表現)なんだなあ。
だから、句読点を省き(もっぱら省かれている、拒絶されているのは「句点」であり、「読点」は書かれているが)、そのことによって「ことば」の「肉体」の連続性を仮装するのだともいえる。
(あ、なんだか、私の書いていることはわかりにくいね。)
視覚は距離がないと成立しない感覚である。視覚は必然的に私と対象を「切断」する。そしてその「切断」のかわりに「像」を「肉体」の内部にとりこむ。「像」が「連続」を仮装する。その「像」を福田は「文字」(ことば)によって確立する。さらに、「像」が必然的に内包する「距離(切断)」を、「その」によって強引に結びつける。
どう言っていいか私にもわからないのだが(だから書くのだが)、福田のことばには、そういう切断と接続の強引な「かけひき」(やりとり)がある。そのなかで、福田は「どこまでが自分の体なのかはっきりわからない」というようなところまで動いてきた。
で、そのとき、なのか、そのあと、ということになるのかわからないが。
そのとき、福田は視覚(眼球)から触覚(皮膚)へと、読点「、」の切断をはさみながら動いてしまう。
このときというか、この瞬間が、私にはおもしろい。いろいろ期待してしまう。考えてしまう。
福田は「触覚」を発見しつつあるのかな?
触覚を起点にして、いま書いてきたことばを動かし直すとき、「その」による接続(連続)はどう変わるのか。それは視覚にどう影響し、それは「文字(ことば)」にどう影響するのか。
その変化を読みたいなあ、と思ったのである。
![]() | 言語の子供たち―福田拓也詩集 |
福田 拓也 | |
七月堂 |