『禮記』のつづき。「生物の夏」のつづき。
ピー
紙のみどりの蛇ののびる音だ
プッスー
ゴムの風船玉がしぼむ音だ
ポウー
孔子やナポーレオンのメリケン粉の
人形やきの言葉だ
この部分の「音」もとてもつまらない。即物的すぎて、イメージが破られない。イメージがかたまってくる。粘着力をもって、しつこくからみついてくる感じがする。
西脇がこんな音を書くとは不思議でしようがない。
唯一おもしろいと思うのは(私がこの部分について書く理由は)、「音」が「言葉」にかわっていることだ。「ピー」は「音」、「プッスー」も「音」、けれど「ポウー」は「言葉」。--これは、しかし「意味的」には同じなのである。私がおもしろいと思うのは、西脇が「音」をはっきりと「言葉」と同義につかっている「証拠」がここになるからだ。
西脇にとって「音」とは「言葉」なのである。
そして、「音」と「言葉」に何か違いがあるかといえば、「言葉」には「意味」があるということだろう。「音」は「無意味」であるのに対し、「言葉」は確実に「意味」をもっている。
この「意味」を含んだ「言葉」という表現をつかったために、西脇のことばは次の行からびっくりするくらい変わってしまう。「意味」だからけになってしまう。「音」の軽さを失ってしまう。
プッスーンー
経水で呪文を書き杉林で
藁人形に釘をうちこむ
女の執念の山彦の
かすかな記憶の残りだ
「経水」には広辞苑によればふたつの「意味」がある。ひとつは「山からまっすぐ一本の流れで海に入る水」。まあ、清らかな水ということ、純粋な水ということになるのかもしれない。それで「呪文」を書く--というのは、あってもいいかもしれない。
けれど、もうひとつ意味「月経、月のさわり」がある。この詩の場合、どうも、これにあたる。女が執念で藁人形に釘を打ち込んでいる。しかも月経の血で呪文を書いている。これは、どうもおどろおどろしい。「神話」になりきれていない。「かすかな記憶の残り」というのが、また、執念深い。ギリシャ神話のように、激烈な運動にまで高まってしまえばおもしろいのかもしれないが、そんなふうにはならない。私には、そんなふうには感じられない。
これもそれも、私には、書き出しにでてきた「たのみになるわ」という音が原因のような気がしてしようがない。このことばは、詩のなかほどにも出てくる。
苦痛を感ずる故にわれ存在すると
言つたとき天使は笑つた
「たのみになるわ」
この天使の存在は
永遠に夢見る夢だ
永遠は夢のかたまりだ
ここも、私には非常につまらなく感じられる。「永遠は夢のかたまりだ」という結論(?)は、西脇のことばにしては「音楽」が欠如していて、気持ちが悪いくらいである。
西脇の詩から嫌いな作品を選べといわれたら、私は間違いなくこの作品を選ぶだろう。
![]() | 西脇順三郎コレクション (1) 詩集1 |
| 西脇 順三郎 | |
| 慶應義塾大学出版会 |
