誰も書かなかった西脇順三郎(214 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 『禮記』のつづき。「生物の夏」。

 書き出しに、私はいつもつまずく。

存在は存在にすぎない
すべては廻転する車だ
出発した点へまたもどる
「たのみになるわ」
ハジカミの実が赤くなり
白い蝶がとまつている九月も
あのシルク・ハットをかぶつている
「妖術の建築家」の研究につぶされた

 「たのみになるわ」という1行が、私には、とても弱く感じられる。「音」が聞こえてこない。ひらがなだけで書かれているからだろうか。
 この詩はとても長いのだが、この最初の部分でつまずいて、どうしようかな、といつも悩んでしまう。読み進むべきか、それともやめてしまうべきか。
 つづく「ハジカミの実が赤くなり/白い蝶がとまつている九月も」も私には楽しくない。「赤」と「白」の対比が単純すぎて、しっくりこない。西脇がしきりにつかうことばを借りていうと「曲がっている」印象がない。
 「あのシルク・ハットをかぶつている」には、その白と赤が「あのシル(しろ)ク・ハットを(あ)かぶつている」という感じで甦ってくるのだけれど、何か違うなあ、と感じてしまう。
 それからしばらく進んで、

言葉もなく反対の小路の中へ
ウルトラマリンの影を流しこんだ

 という2行はとても好きなのだが。
 「ウルトラマリンの影」はとても美しい。書いているのはウルトラマリンなのだが、補色(?)のように、「白」が広がる。白い光に溢れた路。その影は「黒」であってはならない。ウルトラマリンでなければならない、と思う。
 こういう行を読むと、たしかに西脇は絵画的な詩人だと納得させられる。
 でも、つけくわえると。
 「中へ」「流し込んだ」というそれぞれの行の最後の「なか・なが」という音の響きがとても自然で、その音も私は大好きなのである。


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店