「否熟」ということばも、私にはわからない。こんなことばがあるのかどうか知らないが、私は聞いたことがない。そして、「わからない」と書いたことと矛盾するのだが、熟すること(成熟することを)否定している、「未熟」を積極的に選びとろうとしていることは、わかりすぎてしまう。この「わかりすぎる」はつまらない。--だから、というのこの「だから」のつかい方は間違っているかもしれないが、だから、私が最初に書いた「わからない」とは「わかりすぎてつまらない」という意味になる。
どういうことか、というと。たとえば、「確信の敗走者」。
常に正しい敗者であり
充実した弱者でありたい
辛うじて鋭い悲鳴をあげることだけができる
非力さを自負するだけの
無能なものでありたい
「高度資本主義」なるものが押し付ける
<便利さ>という途轍もない浪費が
排出する廃棄物に埋もれることを拒否し
<豊かさ>という空虚な反映の
虚偽と偽善に味付けされた人工飼料を
吐き捨てる
ここに書かれている「高度資本主義」に対する嫌悪はわかる。「高度資本主義」の「勝者」であるよりも「敗者」の方が「人間的」豊かであり、「人間的」な豊かさを欠いた「豊かさ」は空虚である--だから「勝者」よりも「敗者」であることを選ぶ。「敗者」であることは選択であり、そして「確信」である。
--このセンチメンタルは、語り尽くされている。「流通」しすぎている。「流通」しすぎていて、もはやどれが「本流」かわからないくらいである。
こんなことばを読むのなら、「高度資本主義」を勝ち抜くために私はこんなことをした、という「勝者」のことばを読みたい。ここをこんなふうにこじ開けたら、さらにこんなことができたという「勝者」の「声」を聞きたい。きっと、その方が「敗者」よりも「逸脱」している。「敗者」というのは「逸脱」ではないのだ。
もし積極的「敗者」(確信犯としての敗者)がいるとすれば、彼・彼女は「鋭い悲鳴」などあげはしない。「非力さ」も自負しないし、「無能」であるとも言わないはずである。まったく違う「基準」を生きているわけだから、「敗者」ということば自体が存在しないはずである。
東野のことばは「流通」言語にすぎず、この言語の運動を「世界と生の意味を問う」と評価する城戸朱理のことばは、まったくばかげていると思う。
特に、東野の5冊組の詩集が東日本大震災と関係づける形で、そういう評価に組み込まれたことは、なんともばかげていると思う。復興は急がなければならないが、「効率主義」の「解体・再構築」で復興かおこなわれるなら、人間の生は苦しくなる。そんなことに詩は加担してはならない。
*
どこで読んだのか忘れてしまったが、あるところで人間のすばらしい「逸脱力」を感じた。避難所で暮らしているひとがいる。医者(ボランティア?)が「必要なもの、ほしいものはないか」と聞いたら「バイアグラがほしい」とこたえたそうである。医者は、段ボールのしきりくらいしかないところで、バイアグラをつかうなんて、いったい、どうやって、と驚いたそうだが、「バイアグラがほしい」と言ったひとの「逸脱」する力にこそ、私たちは身を寄り添わせるべきなのだ。「そんなこと(?)するより、もっとすることがあるでしょ?」(だってねえ、勃起して困る、なんとか処理したいというんじゃないのだからねえ、よけい「そんなことするより」と言いたくなるかもねえ)、ではなくて、「復興」とか「協力」とかではなく、どうすることもできない「気持ち(欲望)」があるということ、それこそが生きているということなのだから。セックスしたって何も解決しない。失われた家がもどってくるわけではない。けれど、そういうときこそセックスしたいのだ。
そこまでの「逸脱」ではないけれど、山本リンダがボランティアで避難所を訪問したときの話も感動的だった。「あ、山本リンダだ、『狙い撃ち』歌って」と声をかけられて歌を歌った。「歌なんか歌っているときじゃないのに」と思ったが、歌ったらみんながとても喜んでくれたと語っていた。山本リンダの歌も、復興とは関係がないし、食料や水の確保とも関係がない。効率的な暮らしからは「逸脱」している。けれど、人間は、そういう「逸脱」がないと生きていけないのである。
そういう「逸脱」する力を、ことばにどう関係づけていくか。問われているのは、たぶん、そういうことだろう。そういうことばは「遅れて」やってくる。だいたい、「逸脱」を口にすることは、はばかられる。「バイアグラがほしい」というのは、まあ、普通はちょっとはばかられる。高血圧の薬、糖尿病の薬が必要というのとはかなり違うからねえ。でも、だからこそ「意味」がある。そういうことばこそ、「世界と生の意味を問う」のである。そういうことばこそ、「復興」という「意味」を解体し、「再び構築する」力なのである。
*
感想が東野の作品から離れてしまった。セックスのことを書いたので、セックスにもどる。「月交」という作品。
満月の夜に真理は少し歪み月はその時だけ赤い声をいつも産声のようにあげるがその声は女たちにしか聞こえない男たちは外れた所で聞き耳をたててはいるのだが
満月の夜に月は少し膨らみ女たちは恥じらいのなかでそれを受け入れる準備をするの男たちは月をはがいじめにしてでも引き離そうとあがいている
満月の夜に月の精が地球に降り注ぎ地球の女たちは月の子を娠み男たちは月の東側に向かってあてもなく空砲を打ちつづけるのだ
月の光をあびて、かわる女たち。月の光との性交(セックス)。これは、まあ昔からあるテーマではあるかもしれない。けれども、それは書くだけの価値はあることである。どんなふうに同じテーマからことばが「逸脱」していけるか--それはだれもがやってみるべきことなのだと思う。
しかし。
その「逸脱」を「月光(げっこう)」ではなく、「月交(げっこう)」と「視覚」のことばで「意味」を先取りしてしまう(効率的に「意味」を再構築してしまう)と、もう詩ではなくなる。
「西洋現代哲学」というものを読んだことがないので、私の「脱構築・再構築」に対する考え方は間違っているのだろうけれど、私は「間違い」を選びとりたいのだ。「誤読」を選びとりたいのだ。
城戸朱理が東野を評価して書いているような「言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う」方法に与することはしたくないのだ。
と、きょうも城戸批判になってしまった。