東野正『戯私調』 | 詩はどこにあるか

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東野正『戯私調』(セスナ舎、2011年01月11日発行)

 『戯私調』は、何と読んでいいのかわからない。「ぎし」と読んだとき、その「もと」になる熟語が思い浮かばない。
 たとえば、「喘奏曲」なら「前奏曲」という具合に、ことばが結びつかない。
 この『戯私調』は、これまで読んできた3冊とは少し趣が違う。「喘奏曲」というタイトルには、これまで読んできたものの名残があるにはあるが……。
 その「喘奏曲」の書き出しと、最終連。

どこからか かすかに聞こえてくる
小さきものの 幼きものの
ひそやかで せつないその声
あなりは確かに 感じることができるのだ

あなたには 聞こえるのだ
死んだ子を抱く母の叫びが
敵をののしり
自分の運命を呪ううめき声が
崩れてゆくもの 死にゆくものの悲鳴
そしてあなた自身の 声にならない悲鳴が

(略)

だから
雑音に満ちた聞き苦しい世界のざわめきを
なだめるように
ほんとうの音楽を
あなた自身が演奏するのだ
あなたのためのほんとうの音楽を
あなた自身の交響曲を初演せよ

 詩に要約というものが可能かどうかわからないが、この詩は、ある戦い(戦争)に巻き込まれ、子供を亡くした母の嘆きを書いたものだろう。その哀しみ、苦しみ。喘ぎ声。そこから「喘奏曲」ということばが生まれてきているのだろうが、これはちょっとことばの動かし方として酷い、と私は思う。母親の「喘ぎ」を「喘ぎ」ということばをつかわずに書くとき(実際、東野はタイトル以外ではそうしているのだが)、詩が生まれる。「喘ぎ」を迂回する(逸脱する)ことばのなかに、「喘ぎ」の本質が浮かび上がり、生まれ、動きはじめる。
 東野を高く評価している城戸のことばを借りて言えば

言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う

 ということが起きる。それをタイトルで「喘奏曲」と「先取り」し、「答え」を書いてしまうと、もうそれ以後のことばを読まなくてもいいことになる。
 タイトルが詩を壊している。
 「喘奏曲」のような酷いタイトルではないが、「横たわるロミオとジュリエット」「いつまでも一緒の姉妹に」も、時事というか、世界のニュースを題材にした詩である。
 書こうとしている「意味」はとてもストレートにわかる。

サラエボで一組の恋人達が死んだ
高校時代からの恋人でともに二十五歳だった
それぞれが対立する民族に属していた
セルビア人とモスレム人
激しい憎悪が銃の引き金に
力を込めたのだ
対立する民族対立する宗教対立する主張
永遠に 対立する・・・
                     (「横たわるロミオとジュリエット」)

 このストレートなことばは、しかし、どうもしっくりこない。そこに東野を感じることができない。こういうことばを読むくらいなら、まだ、わけのわからない当て字の逸脱を読んでいる方が楽しい気もしてくる。
 あ、こういう詩を題材にして「楽しい」も何もないのかもしれないけれど。
 でも、感じてしまうのだ。
 素直に、サラエボのロミオとジュリエットの悲劇にこころを揺さぶられる、という感じにならないのだ。
 なぜなんだろう。
 私がひねくれた性格だからかもしれない。

 でも。

 「冬からの一番列車」という作品を読んだとき、なぜ、私がサラエボのロミオとジュリエットに共感しなかったかが、わかった。わかったと思った。

もしもぼくが難路で喘いでいるとき
強固な意志で黒光りする石炭をくべてくれ
そして清冽な水をひとすくい汲んでくれ
ぼくが立往生するとき
たぶん世界は虚しく空転することだろう
ぼくの蒸気釜が冷えるとき
世界は冬の時代に閉ざされてしまうだろう

 ここに描かれている「ぼく」は「春を運ぶ蒸気機関車」である。ていねいに「比喩」が展開されている。とてもわかりやすい。けれど、私は、その「わかりやすさ」につまずいてしまう。
 どうして、こんなにわかりやすい?
 理由はとても簡単である。「春を運ぶ蒸気機関車」という比喩、特に「蒸気機関車」が古いからである。古いということは、もうどこかで書かれているということなのだ。(これは東野が盗作しているという意味ではない。)もう、そういう「比喩」は確立されてしまっているのだ。「黒光りする石炭」という常套句、「虚しく空転する」という安直なことば。ことばとことばの「結合」がすでに「流通」している。東野は、「流通言語」で詩を書いているのである。
 サラエボのロミオとジュリエットにもどって言えば、対立する民族(家庭)の恋人達の悲劇--それはロミオとジュリエットという「比喩」として、もう確立されている。「ロミオとジュリエット」は「流通言語」なのである。
 「流通言語」はよほどそのことばをていねいにつかいこなさないと詩にならない。いまり、

言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う

 ということにはならない。
 「流通言語」はただことばの効率化を推進するだけである。
 と、書くと、この問題は、東野の最初の作品に触れたときに書いたことと重なってくる。東野のことばは、「視覚」を優先させることで「意味」を「流通」させる。その「流通」の効率化を推進する。それは、どんなふにう逸脱して見せても逸脱にはならない。効率化することばは「資本主義」の要請にこたえるだけのものだろう。

言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う

 そうしてその結果が、資本主義のよりいっそうの効率化ということなら、詩とはいったいなんだろう。ことばの効率化に対し抗議し、抵抗するのが詩であると私は思うのだが。
 あ、今回も東野の作品について書いているのか、東野の詩を評価した城戸への批判を書いているのかわからなくなった。私はよっぽど城戸のことばが嫌いみたいだなあ。(と、ひとごとのように書いてしまうのである。きょうは。)




空記―東野正詩集 (1981年)
東野 正
青磁社