いろいろ驚かされる映像があるが、何より驚くのはジュリエット・ビノシュとウィリアム・シメルが車でトスカーナの街をドライブするシーンである。ふたりをカメラは車のフロントガラス越しに映し出す。そのとき二人の表情に、フロントガラスに映った街(家並み)が重なり、どちらもはっきりとはしない。よく見えない。トスカーナの街もよくわからないし、二人の表情もガラスに映った半透明の街のなかでゆらぎ、どうにもつかみにくい。
ガラス、鏡、あるいは金属に映る映像は随所に出てくる。ドライブのシーンは全面にそれが映し出されるからまだわかりやすいが、ウィリアム・シメルがジュリエット・ビノシュの画廊を尋ねたシーンでは、室内全体か薄暗い上に、鏡が小さいので、鏡のなかののなかのウィリアム・シメルは、あれは何かなあとよくわからないくらいである。
そのくせ、たとえばジュリエット・ビノシュがレストランの化粧室で口紅を塗るシーンは鏡を見せない。ジュリエット・ビノシュはカメラを(観客の視線を)鏡であるかのようにしっかりみつめ、口紅を塗る--と書いて思うのだが、
これってほんとう? 私が見たのは本物のジュリエット・ビノシュ? それとも鏡のなかのジュリエット・ビノシュ? ほんもののジュリエット・ビノシュと見るのが「自然」かもしれないが、絶対に鏡のなかのジュリエット・ビノシュではないとは言い切れない。どちらとも受け取ることができる。
だいたいほんもののジュリエット・ビノシュと鏡のなかのジュリエット・ビノシュを区別することに何か「意味」があるだろうか。少なくとも、鏡のなかのジュリエット・ビノシュは「鏡像」だとしても「ニセモノ」ではない。
そういうことは、この世界にはたくさんある。最初に紹介したフロントガラスに映るトスカーナの町並み。それはフロントガラスに映った像である。けれど、それは像ではあるが「ニセモノ」ではない。
あらゆるものに「ニセモノ」はないのである。
「芸術作品」には「ほんもの」と「ニセモノ(贋作)」があるが、その「ニセモノ」は「ほんもの」とそっくりだから「ニセモノ」なのである。それは「ニセモノ」ではなく、ある願望が映し出したひとつの「像」なのである。そして、その贋作がたとえば金を稼ぎたいという目的でつくりだされたものだとすれば、そこには金がほしいという「ほんものの」の願望がひそんでいる。
ひとは、あらゆるものを、自分の願望で塗り込めることで「ほんもの」にする。「願望」がほんものであり、その願望が映し出す(浮かび上がらせる)ものは、何よりも「ほんもの」そのものになっていくのである。
あ、ちょっとややこしいことを書いてしまった。このままでは、私のことばは動いていかない……。
で、ちょっと視点をずらして映画にもどると。
ジュリエット・ビノシュはウィリアム・シメルたまたま入ったコーヒー屋で夫婦に間違えられる。それはほんとうに間違えられたのか、それとも二人の関係が不安定になっているから「夫婦と間違えられた」と告げることで、ジュリエット・ビノシュがウィリアム・シメルとの関係を修復したいと願っているのか、よくわからない。
ひとつだけはっきりしていることは、何かを「映し出す」ものは鏡やガラスや金属だけではないということだ。ひとも他人を映し出すのである。コーヒー屋の女主人は、ジュリエット・ビノシュとウィリアム・シメルを「夫婦」として「映し出した」のである。「見る」とは何かを自分の色に染めて「映し出す」ということなのである。
この映画には、ほんものかにせものかわからないジュリエット・ビノシュとウィリアム・シメル以外にも「夫婦」が出てくる。妻を無視して電話に向かって大声をあげている男。トスカーナにある美術品を尋ね歩いている夫婦。年取ってよぼよぼとホテルへ帰る夫婦。--それは、ジュリエット・ビノシュの視線に(あるいはウィリアム・シメルの視線に)映し出された「夫婦」である。ほんとうは違うかもしれない。いや、映画の登場人物の視線ではなく、観客の、つまり私の視線によって「夫婦」として存在するだけかもしれない。ジュリエット・ビノシュとウィリアム・シメルが「夫婦」であるかどうかわからないように、そこに登場する何組かの男女も「夫婦」であるかどうかなど、わからない。たとえ彼らが「夫婦である」と語ったとしても、そのことばがほんとうかどうかはわかりはしないのである。
わかるのは、--というのは、変な言い方かもしれないが、私にとって、そこに登場する何組かの男女は「夫婦」ととらえた方が、この映画が理解しやすいということである。そして、その理解しやすいということの延長で言うと、私は、この映画のなかでは、ジュリエット・ビノシュが男とセックスをしたいと思っているととらえると、この映画のストーリーがわかりやすい。
人は誰でも自分の「願望」に映して世界をとらえる。願望が映し出した「世界」の奥には願望が半透明の形で透けて見える。ジュリエット・ビノシュは男がほんとうの夫か、それとも偶然出会った男であるかはどうでもよくて、ただセックスをしたいと思っている。そして、その願望のためなら「夫婦」を装うこともかまわない。「夫婦」は「にせもの」であるけれど「願望」は「ほんもの」であるからだ。
その「ほんのもの」の願望をに近付くために、彼女は見るものをすべて、その「願望」にかなう姿で定義していく。アメリカから彫刻を鑑賞に来た「夫婦」、彫刻が描き出す男女の関係のなかにある「夫婦」、年をとって支えあう「夫婦」。それは「ほんもの」というよりも、彼女の「願望」がどれだけ「ほんもの」であるかを語るだけのものなのだ。
そして、そして、そして。
私はちょっとうなってしまうのだが、このジュリエット・ビノシュの「ほんもの」を「哀しみ」(女のかなしみ)として描き出しているところなのだ。ジュリエット・ビノシュがウィリアム・シメルとセックスをしたいと思っているのは、ふたりが不和に陥った夫婦であり、その不和を解消するためなのか、それとも単に彼がいい男であり、有名人だからなのかわからないが--男と肌を合わせたいと、哀しいまでに願っていると描き出すことなのだ。どうすれば、その気持ちをつたえられるか、ジュリエット・ビノシュ自身もわからない。わからないまま、まるで「ひとつの芸術作品」のように、静かにそれを描き出すということなのだ。
私はジュリエット・ビノシュを、まるで謎が解かれるのを待っている「芸術作品」の「ほんもの」として見てしまったのだ。それが「ニセモノ」である可能性もあるのだが、「ほんもの」と感じてしまったのだ。
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