誰も書かなかった西脇順三郎(209 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 『禮記』のつづき。「神々の黄昏」(2)。
 西脇の、女の描写が私は好きである。

遠くの方で女房たちは互いのへそを
みくらべてしんみり見つめて
動物の秘密の悲しみを悲しんだ
星座の涙も霧に閉ざされた

 この「へそ」は女ひとりの「肉体」ではない。人間の肉体を超え、永遠の肉体である。「動物の秘密」である。男もまた「へそ」をもってはいるが、それは「出生」とつながるだけで、女のように「出産・出生」という両方の機能(?)をもっていない。男の悲しみは「動物の秘密」にはつながらないのだ。男の悲しみは、せいぜい「脳髄」の淋しさにつながるだけである。
 女の悲しみは「脳髄」につながらないと書くと叱られるかもしれない。脳髄にもつながるだろうけれど、「肉体」にもつながっている。そして「肉体」とつながるとき、「脳髄」はどこかへ捨てられる。
 だから、

星座の涙も霧に閉ざされた

 という1行も、美しい音楽になる。男がこんなことばで悲しみを飾れば、脳髄の嘘になってしまう。
 男の「へそ」と比べるとはっきりするかもしれない。

ちょうどエダマメを枕にして
昼寝をする農夫のへそに
とんぼがとまつて考えている
のも同種の神話にあたる

 男は悲しむのではなく、考えてしまう。脳髄で考える。そして、それを自分でもちこたえずに「とんぼ」という人間以外のものに託してみたりもするのだが、完全には託しきれない。

のも同種の神話にあたる

 すぐに「ことば」にかえってしまうのである。「抽象」にかえってしまうのである。これにつづく行は、そのことをもっと悲しい音のなかで展開する。

ひるねをする流のヒゲには
みどりの蝶々がたわむれている
マティスのオダリスクの
ホメーロスのオプファロスの
悲しい歴史

 「歴史」とは「肉体」ではない。「もの」ではない。それは「脳髄」のなかに整理された抽象である。そういう抽象は、マティスだのホメロスだのの、芸術と悲しい対話をするだけなのだ。
 男の悲しみは、音楽でいえば「短調」である。悲しむように悲しむ。女の悲しみは「長調」である。それはどんなに悲しんでも、悲しみからはみだしてのびやかに動いていく。「互いのへそを/みくらべてしんみりみつめて/動物の秘密の悲しみを悲しんだ」の「しんみり」は「うっとり」と差はない。「悲しんだ」は「受け入れた」と差はない。「長調の悲しみ」というのは矛盾だが、その矛盾が女の美しさなのだ。強さなのだ。

 西脇は女を礼賛している。


ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
小沢書店