西脇の詩にはときどき変なところがある。とってもおかしいところがある。たとえば「梵」のなかほど。
でも地球の最大な人間の記憶は
「ボンショウ」の音だ
ただひとり歩いている音など
もつともつまらない地球の記憶だ
あの考える男などは
考える銅にすぎない
考えてもだめなんだ
ここには「人間」を「音」ととらえる西脇がいる。「人間」を「音」ととらえるとき、その「音」は西脇にとっては「つくりだしたもの」(わざと)でないといけない。「ボンショウ(梵鐘)」は人間がつくった「音」である。ある「音」を聞きたくて、人間はそれをつくる。どんな「音」でもいいわけではない。人間は「音」を好みによってよりわける。そういうところに「思想」がある。(人間がつくりださないもの、「わざと」ではない「音」に「歩いている音」がある。西脇は、梵鐘の「音」をそれと対比している。)
--というのは、しかし、きょう書きたいことではない。
「あの考える男などは/考える銅にすぎない/考えてもだめなんだ」の真面目なのか冗談なのかわからない部分も、きょう書きたいことではない。
次の部分。
会社が作つたコカコーラを捨てて
この最大な地球の瞬間
に耳をかたむけることだ
脳南下症は
永遠へ旅立つ美しい旅人だ
「脳南下症」って、何? 「脳軟化症」でしょ?
「考える男(考える人)」は「考える銅」だということばよりも、このことばの方がはるかに強烈だ。--強烈、というのは、その「南下」がそのまま人間の動き、「南下する」、南へ下る、ということろから「旅」へとつながっていくからである。
人間はどこかへ行きたがる。東西南北どこでもいいのだが、そこには「南(下)」もある。そういう旅へのあこがれを、「永遠へ旅立つ」と呼ぶ。「永遠へ旅立つ美しい旅人だ」の「美しい」は「学校教科書」的には「旅人」を形容するのだけれど、どこかへあこがれ、動いてしまうこと--旅立つこと自体が美しいとも読むことができる。その旅が美しくなければ、旅人も美しくあるはずがない。
ある属性(?)は、共有されることで強靱になる。
こういう「だじゃれ」のようなことばの動きからも、西脇の「音」こそがことばなのだという「思想」がうかがえると思う。
その前の行に「この最大な地球の瞬間/に耳をかたむけることだ」とあるのも象徴的だ。「目を向ける」ではなく「耳をかたむける」。すべては「音」として肉体に入ってくる。
そうであるなら、すべては「音」を通って「肉体」から出ていく。視覚は(絵は)、ある道具がないと表現できないが、「音」は「肉体」があれば、それだけでいい。(と、書くと、ことばを発することができないひと、「音」を聞くことができないひとには申し訳ないような気もするが、この点は、私は自分の考えをつきつめることができない。あくまで、自分の「肉体」のありようとの関係でことばを動かしている。)「音」(聴覚)の方が「絵・文字」(視覚)よりも人間に深くかかわっていると思うのである。
西脇のことばも「音」の方に深くかかわっている、と感じるのである。
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| 沢 正宏 | |
| 双文社出版 |
